28章 太平天国

その部屋は、大広間と呼んでもいいくらいの広さだった。

縦の長さが30メートル、左右の幅は50メートルくらいはあるだろうか。

天井も高い。

周囲の壁には絵の具をデタラメに塗りたくったような絵が描かれていて、
その広間の一番奥まったところに、大きい椅子が据え付けられていた。

そこにゴージャス男はいた。護衛の悪魔2体と、なにやら言い争っている。

その護衛に目を向けて、俺は驚いた。

なんと、ミユキが蹴破った小部屋にいた4体の悪魔のうちの2体ではないか。

…なるほどな。

俺たちが侵入してきたのをみて、あの場にいた半分は俺たちを追いかけ、残りの半分はゴージャス男に報告しに来ていたわけか。

俺たちと出くわさなかったのは、内部の者だけが知っている近道があったのか、壁を透過できる能力の持ち主だったのだろう。

「ですから、侵入者どものあの動きの速さから考えて、やつらはいつここにやってきてもおかしくありません!すぐにでもお逃げになったほうが…」

『くどい!そうなる前にお前らが始末すればいいだけだと何度言わせるつもりじゃ!これ以上はいかに寛容な余といえど許さんぞ』

「しかし…!」

『やかましい、死ね』

言うが早いか、ゴージャス男は自分に食い下がっていた悪魔の頭を、右手で払った。

次の瞬間、その悪魔が消えた。

おそらく、俺以外の仲間には、何が起きたのか正確には理解できなかっただろう。

ゴージャス男に頭を払われた悪魔は、一瞬で全身を生体マグネタイトに還元されてしまったのだ。

その証拠に、彼の身体を構成していた生体マグネタイトが俺のCOMPに吸収されている。

デビルサマナーの俺には、悪魔が不可視のマグネタイトに溶かされてしまっても、それが見えるのだ。

それを目の当たりにした相方の悪魔は、声も出せない。

『まったく、どいつもこいつも、どこまで余の…!!』

そこまで愚痴を言いかけて、ヤツは両目を真円に近い状態まで見開いた。

『き、貴様ら、いつの間にこんなところまで!!』

ようやく、俺たちのことに気がついたらしい。

椅子から立ち上がったかと思うと、1体残った悪魔を押しのけるようにして猛スピードでこちらに浮遊してきた。その後を追って、悪魔が一生懸命走ってくる。

そして、ヤツは俺たちの数メートル前で止まった。興奮と動揺で、相当に息が荒い。

ミユキが2歩前に歩み出て、右手の人差し指を高々と上げてタンカをきった。

「相変わらずの暴君ぶりね。そうやって自分の配下を使い捨てにするような行動も、
中国政府をひっくり返すような振る舞いも、そこまでよ」

『黙れえっ!!』

ゴージャス男の絶叫。歯を食いしばり、顔中を脂汗だらけにして、もはや支配者としての貫禄を出そうとする余裕すらない。

『貴様らのような、どこの馬の骨ともわからんような連中に、太平天国再興の邪魔などさせてなるものかーっ!!』

…へっ!?

「なに、太平天国の…再興だと?」

ゴージャス男のこの一言には、全員が意表を突かれた。

とりわけ、ルリの動揺は大きかったようだ。

「なんですって…あなた、そんなバカなことを、本気でやろうとしていたの…?」

『バカとはなんだ、バカとは!先祖の悲願を子孫のわしが達成しようとして、何が悪い!!』

「な、な、な…?祖先の悲願?」

ちょっとちょっと、なんだか話が思わぬ方向に行き始めたぞ?

おまけに、今まで自分のことを『余』と言ってたヤツが、いつの間にか『わし』に変わってしまったし。

…いや、おそらくはそっちがゴージャス男本来の言葉遣いなのだろう。

今までは支配者としての体面を保とうとして言葉を選んできたが、本拠地に追い詰められるに至って、とうとう本性が暴かれてしまったというところか。

そして今ごろになって、十条寺がやっと話に首を突っ込んできた。

「何だ、いきなり?太平天国って、だいぶ前に世界史の授業で聞いたような気はするが、それがなんでここに関わってくるんだ?
それも、先祖だの子孫だの、話が見えてこないんだが…」

…まあ確かに、ちょっと話を整理する必要はあるかもしれない。

それにうまくすれば、ゴージャス男の本心や素性も探れそうだ。

「まず、太平天国というのは、清の時代にここ、中国大陸で反乱を起こした新興国家のことだ。創始者は、確か…」

「洪秀全よ。彼が太平天国を興したのは、1851年。当時、清国は非常な重税を国民に課していたから、
いろいろな勢力が反抗したけれど、太平天国もその1つなの。
ただ、これが他の勢力と違うのは、キリスト教の思想に基づいた理念を掲げていたところなの」

俺が説明に詰まったところを、ルリが引き継いでくれた。

さすがは自国の歴史だから、詳しいところまで押さえている。

「洪秀全が掲げた思想は、我はイエス・キリストの弟であり、我の下に全ての人々が同じように食べて、
同じように着て、同じように生活していれば全ての人が幸せになれる、というものだったのよ。
その思想に飛びついた人々が勢力を拡大し、一時は清国と大陸を二分するほどの力を持ったのだけど、
内紛に次ぐ内紛で弱体化し、結局10年あまりで滅んだの。」

「内紛だと?」

「そうよ、十条寺さん。洪秀全が説いた、万人平等という考え方は、基本的には素晴らしいものだったんだけど、
誰も彼もまったく同じことをすればいいというところまで極端なことをしようとしたから、
反発する人も出てきたのよ。洪秀全には、それをうまくまとめるだけの…」

冷静に、しかも長々と祖先の失敗を説明していくルリに我慢ならなくなったのか、いきなりゴージャス男が割り込んできた。

『祖先の考え方のどこがおかしいというのだ!!人間は皆平等というのは、貴様ら日本人どもが法律にしてまで謳っていることではないかっ!』

「法律じゃねえよ、憲法だ」

ヤツにとっては些細なことかもしれないと思ってはいたが、案の定ゴージャス男は俺の訂正にも聞く耳を持たない。

『やかましいっ!!わしは、祖先と同じように神のお告げを受けたのだ!
 あの朝、祖先の記憶を垣間見た後、あの使徒はわしこそが世界の王となり、
この世を太平天国の再興によって平定する運命なのだと告げたのだあ!!』

「…使徒だって?」

『そうとも!そもそもわしは、ほんの1年前までは、チベットとの国境近くの山奥で、
毎日を1人で無為に過ごすだけの、愚かな存在だった。
だがあの運命の朝、自分の小屋で目を覚ましかけたとき、頭のすぐそばに神々しい光をまとった人影が立っていたのだ!
そしてわしにこう告げた。…男よ、自らの運命に目覚めよ。お前こそは、祖先の悲願を果たすべき宿命を背負った者に他ならない。…とな』

熱にうなされているかのように、ゴージャス男は叫びつづけている。

まるで、そうすることで、自分の正当性を主張するかのように。

『当時のわしは、世界を平定するなどという、そんなだいそれたことができるとは、これっぽっちも信じていなかった。
だがその使徒は、わしに祖先の記憶を見せてやろうと言って、太平天国を創り上げた祖先が人々に説き、戦い、悩む姿を
あたかもわし自信の記憶を辿るかのように蘇らせてくれた。
そして、今お前が体験したかのように感じたことは、お前の魂に刻まれた祖先の記憶に他ならないとも言った』

「祖先!?そんなはずはないわ!!」

言い終わった途端、ルリが叫んだ。

「子供も含めて、洪秀全の親族は、度重なる内乱で全員死んだはずよ。子孫だなんて、そんなばかな!」

『ならどうしてわしがここにいる!!どうして先祖の記憶を引き出すことができたのだ!』

「…」

セリフの内容より、むしろゴージャス男の狂気にも似た気迫に押されて、ルリは黙り込んでしまった。

『…だが、そのときのわしには、祖先のような知恵も力もなかった。それを口にすると、使徒はこの本を授けてくれたのだ。
これを開いて一心に念じれば、かつて祖先が討伐した者たちが、わしに従うと。
その力を持ってすれば、お前にできぬことなどないと言ったのだ』

そう言ってゴージャス男が取り出したのは、例の白澤図だった。

『さらにあの使徒は、わしに強力な守りの力を授けてくれたのだ!
愚かな下賎の輩では破ることのできない守りと、敵対するものを打ち破る力を放つこの本を使ってこの国を征服し、
やがては世界中をわしの支配下においてこの世を真の平和に導くのだあっ!!』

叫び終わったゴージャス男は、ふーっと息を吐いた。

「そういえば…」

十条寺が、改めて周囲の壁に描かれている絵を眺め渡す。

「この壁に描いてある絵、大勢の人が並んで歩いているようにも見えるな。
それに、あっちの奥の方は、円く輪になって食事をしているところを描こうとしていたんじゃないか?」

「おいおい…」

お前ね、十条寺…あんな演説を真に受けた程度で、ここのヘタクソな壁画が理解できるとでも言うつもりかね!?

口にしないままで押し留めた俺のツッコミなどいざ知らず、ゴージャス男はさっきにも増して張り切って演説を続ける。

『そうとも、ここの絵はわしが理想として頭に描いていた太平天国を、最初に呼び出した悪魔に描かせたものだ。
イエス・キリストの弟たる祖先の血を引くわしこそ、生まれながらにしてこの世を治める王。
その下で平和に暮らす民、つまりは未来予想図を最初に描かせたことこそ、我が偉業の第1歩だったのだあーっ!!』

広間中に響き渡るヤツの声が、気のせいかずいぶんと虚しく聞こえた。

「お前、…哀れだな」

自分でも思いがけない言葉が、ごく自然に口をついて出た。

『あ、あ、哀れだと!?』

言った俺自身が意外だったのだから、ゴージャス男の驚きはもちろん、それ以上だろう。

「そんな子供だましの口車に乗せられて、使いこなすことのできないほど強力な力を押し付けられて、できるはずのないことをやらされている。
これが哀れでなくて、何なんだ?」

「そうよ。それにあなた、さっき太平天国を再興するって言ってた。
さっき、ルリさんもその思想は基本的に素晴らしいって言ったけど、平等の意味するところが根本的に違うと思うのよ。
うまく言えないけれど」

ミユキの言葉に、ゴージャス男は憤慨の度合いをさらに高める。

『ええい、わけのわからんことを。誰もが同じように生き、同じように食べ、同じように過ごすことのどこがいかんというのだ!』

「なら聞くが、お前はその祖先の夢が、どうして内紛による自滅という形で崩れたと思う?」

『な?なんだと!?』

ゴージャス男は、そんなこと考えたこともなかったというように眼を真ん丸に見開いた。

もちろん、こっちだって本来なら10年以上も昔の一般人だったころ、学校の授業でちらっと聞いた程度の知識量でしかない。

歴史上の事実を推測だけで、さも見てきたかのように言い当ててみせようなどとしているのだから、

ギャンブルもいいところだ。

だが、今のルリの説明で、推理のための材料は充分に揃っている。

あとは…。

「本当に万人が理想とする考え方だったなら、たった10年あまりで滅んだりしないはずだし、
反対勢力も滅ぼすことはできなかったはずだ。それが何でそんなにあっさりと滅んだのか、子孫のお前にはわかっているのか?」

『貴様、一体何を言いたいんだ!?』

「本当の平等とは何なのか、わかった上で太平天国の再興をやろうとしているのか、と聞いているんだ。
もしそうでなかったら、例えお前が再興を成し遂げたところで、祖先の二の舞になるだけだぞ」

俺の指摘に、ゴージャス男は頭の痛くなるような答えを返した。

『さっきから言っておるではないか、イエス・キリストの弟の血を引くわしの下で、
全世界の者が同じように振る舞い、食物を分け合うことだと、何度言わせるのだ!!』

あ〜あ…。

こいつは、まるでわかってない。

見れば、他の連中も額を押さえたり、顔をしかめたりしている。

…ん?そういえば、さっきからルリの姿が見えない。

部屋に入ったときは、確かに俺の横にいたのに。それとなく室内を見回すが、それらしき人影は見え

…いや、いた。

ゴージャス男の真後ろでしゃがみこんでいる。何をするつもりだ?

『どうした、やっとわかったのか!!』

見当違いなゴージャス男の怒鳴り声で我に返った。ルリよりも、今はこいつを言い負かす方が先だ。

「あのな…お前が平等だと思い込んでいるやり方は、とんでもなく非効率で非常識なんだよ」

『ななな、何を言い出すのだ!!』

俺の言葉に、ゴージャス男は度を失った。

「どんなに頭のいい人にも、その頭脳を活用する仕事を与えない。
どんなに手先が器用な人にも、それを生かす機会を与えない。
どんなに力の強い人がいても、それを生かすことは許されない。
お前のやろうとしている平等とは、そういうことだろ?」

『なんだと…?わしはそんなことを言った覚えはない!!』

「笑わせるな。食べ物があれば、それをみんなで分けて食べる、と言っただろう。
つまり、目の前にあるものをいろいろ活かそうとしないで、ひたすらに分けて使う、ということじゃないのか?」

『…活かすとは?』

「たとえば、何倍もの果実をつけるはずの種を見つけたとしても、種のまま食べ尽くすだけ。
きちんと加工して組み合わせていけば、家を建てることだってできるはずの材木を見つけたとしても、ただ燃やして暖を取るだけ。
外敵に襲われたときでも、女子供や年寄りまで駆り出して意味もなく犠牲者を増やすだけ。
確かに分け隔てこそないが、こんなやり方のどこが幸せだというんだ!?」

『…そ、それは…』

自分の言っていることの欠点に気がついたのか、ヤツの口調がだんだん鈍ってくる。

『な、ならば、貴様にはそれに代わる平等のあり方というものがわかっているとでも言うつもりか!?』

お、なかなかいい点を突いてくる。

いかに頭のまわらないこいつでも、追い詰められて初めて自分で考えるということをしてみたのか。

それに今の指摘は、冷静に考えてもなかなか答えを出すことのできないものだ。

しかし、ここでこちらが答えに窮してしまったら、ヤツをやり込めることはできない。

要は、ヤツの言い分を認めるにしても、その後の反論を用意していればいいのだ。

「いいや、はっきり言って、誰に聞いたってそれに対して明確な答えを持っている人間なんかいないだろうな。
それがわかっていれば、それこそ真に平等な団体なり、国なりができていてもおかしくない」

「…御手洗さん?」

話が妙な方向に行き始めたと思ったのか、ミユキが怪訝そうに俺の顔を覗き込んできた。

…実は、俺も次第に迷いはじめていたのだ。

さっきまでのゴージャス男が喚いていた話が本当ならば、今回の一連の騒ぎは、この男を倒したからといって解決する問題ではない。

所詮は、使徒とやらを名乗る何者かにそそのかされ、踊らされているだけの存在でしかない。

その使徒を名乗る輩にたどり着かないままで、この任務を達成したと言えるのだろうか?

むしろ、目の前のゴージャス男を問答無用で倒してしまうより、
説得して使徒とやらについて情報を聞き出したほうがいいのではないだろうか、とも思えるのだ。

そのためにも、ここで何としてもゴージャス男の考えを論破しなければならない。

「…だがな、一度失敗した理念をそのまま打ち立てて国を創ろうとしたって、絶対にうまくいかないのは目に見えている。
まして、その理由までも明らかになっているのならなおさらだ。
そんなことでこれほどの犠牲者が出たのでは、放っとくわけにはいかないんだよ」

『…』

黙り込んでしまったゴージャス男に、十条寺がたたみ掛けるように言った。

「それに、貴様の夢には致命的な欠陥が存在する」

『こ、こ、この上、何だというのだ!!』

「貴様は指導者としての資質がまったくない。
俺が御手洗たちと合流してから、今までの経緯を少しだけ聞かせてもらったが、
たとえ悪魔といえど配下の者を使い捨てにしている貴様は、普通の人間以下だ。
勝ち目のなくなった戦いから撤退することを許さなかったり、さっきのように気に入らん部下をあっさり殺すなど、下の下だ。
そんなヤツが世界を指導するなど、それこそどうかしている」

げっ!?

ちょっと待てい、十条寺!

説得をなんとかすんなりこなそうと、敢えて俺が触れなかった点をなんでお前がいじるんだよ!!

見ろ、ゴージャス男だけでなく、ミユキまで顔色を変えたじゃないか!

「じ、じ、十条寺君!それを言ってしまったら…」

「何をうろたえている?事実だろうが」

こいつは…何を落ち着き払ってんだよ!

「そりゃそうだが、俺はこいつの背後にいる使徒とやらのことを聞き出すために、無理に倒すよりは刺激しないように説得できないかと…」

「御手洗さ〜ん!!」

俺に皆まで言わせず、ミユキが絶望的な声で叫んだ。

…あ、しまった。

十条寺の爆弾発言に焦ってしまい、こっちの思惑を全部喋ってしまった。

これでは、もう説得など無理だ。

『…』

恐る恐るヤツの方を見ると、なにやら肩を震わせながら俯いている。

長い長い沈黙の後に、こちらに向けた眼には、かつてなかったほどの怒りが込められていた。

『ずいぶんとふざけたことを企んでくれたわけだな。こうなったら、わしが自らの手でお前たちを処断してくれるわ!!』

血を吐くような呪いの言葉に、十条寺が平然と応える。

「何を言い出すかと思えば…。貴様の腕で、俺たちを倒せるとでも思っているのか?」

『わしには、使徒から与えられた守りの障壁がある。貴様らの力ではわしに傷つけることはできんわい。
確かにいますぐ貴様らを倒すことはできんが、機械でもない貴様らが、いつも完全な体調とは限らんだろう?
…わしは、貴様らを追いまわしてやる。
1年でも、10年でも、休ませず眠らせずにな。貴様らが疲れ切ったところで、気が済むまで切り刻んでやる!』

な、なんとも執念深い。

「げ、陰湿」

ミユキも思わず唸った。

とはいえ、こいつをそこまで怒らせたのは俺たちであるから、無理ないところもあるが。

と、そのときだ。

「残念だけどそんなことはさせないわ」

ルリの声だ。同時に、ゴージャス男の周囲が緑色に光った。

『な!?ななな!?』

慌てふためくゴージャス男。良く見れば、ヤツの前後左右の足元に、彼女がよく使う呪符が貼り付けられ、それらが発光しているのだ。

そして、その光が収まったとき、ルリが俺たちの前に立っていてゴージャス男を睨んでいた。

「思ったとおり、空中浮遊に代表される妙な力ははあなたのものじゃなくて、あなたの周囲の空間に封じられていたのよ。
それが外部に拡散するのを遮断していたのが例のバリヤーなんだけど、これも周囲の空間から構成されたのもだったの。
だからあなた自身に働きかけようとせず、周囲の魔力を中和してしまえばよかったのよ」

そして勝ち誇ったように言った。

「やはり、この男本人からはかけらも魔力を感じない。そしてあなたの周囲の魔力を中和したから、もうバリヤーに限らず、おかしな超能力は一切機能しないわ」

『こ、小娘が知ったようなことを!!』

「なら試してごらんなさいよ。今のあなたは、宙に浮かぶことすらできないわ」

この言葉に、ゴージャス男はぎょっとしたようだ。

さかんに何かを念じてあれこれと両手で印を結んでいるが、何も起きない。

「あ、言っとくけど言葉が通じるのは私の力よ。中国語のまま喋ったって、あなたの絶望は私以外のみんなにもちゃんと伝わってるから安心なさい」

その言葉にゴージャス男は一瞬黙ったあと、猛然と叫び出した。

『おのれぇっ!ならばこの本の力で何千、何万という悪魔を呼び出して…』

「無駄だ」

必死の表情になって白澤図をめくり始めたゴージャス男を、俺は静かに止めた。

「もう、貴様には悪魔を実体化させることはできないぜ。
その本は、周囲の生体マグネタイトを吸い上げて呼び出した悪魔に肉体を与えていたはずだ。
貴様は呼べるだけの悪魔を呼んで警備に当たらせていたようだが、
そいつらは俺たちが侵入したときの混乱で同士討ちをしてしまって全滅している」

説明しながら、俺はCOMPを持ち上げてみせた。

「…このCOMPにはそいつらの身体を構成していた生体マグネタイトが溜まっている。
とんでもない量だぜ、おそらく半径50メートル以内のマグネタイトが枯渇したんじゃないかって思うくらいに、な。
それが回復するには、少なくとも1週間はかかるだろう」

『ほざけぇ〜っ!!』

ついにゴージャス男は鬼のような形相になり、両目から赤い液体を溢れ出させた。

血の涙だ。

そのありさまに俺たちがぎょっとした隙を突いて、何を思ったか自分のそばで事の成り行きを呆然と見守っていた悪魔に飛び掛った。

「み、ミカド!一体何を!?」

慌てる配下の悪魔を完全に無視して、なんとヤツはその悪魔に噛み付いた。

いや…!

あろうことか、悪魔の腕を食いちぎり、ムシャムシャと食べているではないか!!

「あ!ああああ…!」

片腕を失い、絶叫する悪魔。俺も十条寺も、あまりのことに蒼白になって立ち尽くしてしまった。

「う…おええ…」

想像を絶するおぞましさに、ミユキとルリが同時に吐いた。

俺も、こんな光景を目にしたのは初めてだ。

人が悪魔を、生きたまま食らうなんて…!!

そうしている間にもゴージャス男は、自分よりかなり大柄なはずの悪魔のはらわたをむさぼり、反対

側の腕を食いちぎり、頭を飲み込み、両脚までもむしゃぶり尽くしてしまった。

そして全身に異常なまでの妖気をみなぎらせて立ち上がり、こちらを見てにやりと笑った。

…その顔は、既に人間のものではなかった。

『ぐぇぐぉぐぉ…あ、悪魔の、ち、ちからをとりこんで、ほ、ホ、ホントウノムテキ…』

だんだん声が聞き取りにくくなってきた。それとともに、その肉体にまで徐々に変化が起き始めた。

途端にルリが声を限りに叫んだ。

「だ、だめぇっ!!いくら破れかぶれになったからって、人であることまで捨てちゃだめよっ!
それ以上体内に取り込んだ悪魔の力を解放したら、本当に…!」

「な、なんなの、何が起きてるの!?」

もはや、彼女はミユキが何を聞いてきても、ゴージャス男から眼が離せなくなっている。

「ゴージャス男、もう人間であることを捨ててでも私たちと戦うつもりよ!さっきの悪魔を食べて、
その力を自分の身体に取り込んじゃったの!…悪魔の強大な力を自分が直接使って、あたし達を倒せるようにって!」

「なんだって!?じゃあ、ヤツは悪魔に変身するためにあんなことを…」

十条寺がルリに確認するかのように話し掛けたが、そんなことをしなくてもゴージャス男の今の姿を見れば明らかだ。

既に両手からはカギ爪を生やし、皮膚がどす黒く変化している。

「彼の声が聞き取りにくくなったのは、喋れなくなったからじゃないのよ。彼の言葉として聞こえるのは、
彼の思念を私の術で日本語に変換したものなの。それが効かなくなったということは、彼が人間としての思考を維持できなくなった…
つまり、心まで悪魔になってしまったってことなのよ!!」

29章 悪夢

本来、ゴージャス男のように生身の人間が悪魔を食べたからといって、悪魔に変身できるわけでも、悪魔と合体できるわけでもない。

生体マグネタイトの電気的な配列によって構成されている悪魔の身体は、人体と激しい拒絶反応を起こすため、即座に悶絶するか、場合によっては死に至る。

まかり間違って自分より強力な悪魔の肉体を食べようものなら、人間の体の方が悪魔に乗っ取られて悪魔の体の一部になってしまうのがオチだ。

第一、そんなことをしたところで悪魔と合体できるわけでも、悪魔の力を手にいれられるわけでもない。

前にも説明したように、悪魔と人間を合体させてユウカのような悪魔人を作るのは、非常に成功率が低い。

それも、合体のための入念な準備をしていてそのありさまだ。

…だが、ゴージャス男の場合はちょっと違った。

悪魔と人間の長所を併せ持つつもりではなかったのだ。

人間としての理性を失ってもいいという、片方だけの特性が色濃く残っても良いという条件でなら、成功率は飛躍的に上昇する。

そして、ヤツの絶望からすり変わった憎しみは、食われた悪魔の破壊衝動をまっすぐ俺たちに向けた。

その結果…。

ズン!!

『ごわぐぇ、ごあぁどぉ!!』

ゴージャス男の身体は、倍ほどに膨れ上がり、全身がてらてらと気味悪く光る、グロテスクな怪物に変化してしまった!

その脂肪過多体系はそのままに、全長が2メートル以上にもなっている。

当然、今まで着ていた服がそれほどの巨躯を被えるはずもないから、びりびりに千切れて足元に落ちている。

体色も嫌悪感を誘う暗い緑色になり、時折脈打つのがグロテスクさに磨きをかけている。

かろうじて顔らしき部分は残っているが、頭頂部から不自然なほど巨大な角が1本生えている。

口には牙も覗いているが、口内の大きさは変わってないため、はみ出ているありさまだ。

そして、顔の中心で吊り上がった真っ赤な眼が、俺たちを見据えて怒りに猛り狂っている。

…こうなってしまっては、ヤツはもはや悪魔とも呼べない。

底なしの破壊衝動に突き動かされ、命あるものを見境なく切り刻んでいくただの暴力の塊になってしまったのでは。

「くるぞ、油断するな!!」

1歩1歩こちらに歩いてくる怪物を警戒して、十条寺の激が飛ぶ。

それと同時に、怪物が右腕を振りかぶった。

だが、なぜだ?そこからでは届かないだろうに?

その疑問は怪物が腕をこちらに伸ばしてきた瞬間、解けた。

文字通り、右腕がゴムのように俺たちの目の前までびよんと伸びてきたのだ!!

凶暴な光を放つカギ爪がミユキと十条寺を狙っていた。

「くっ!」

咄嗟に飛びのく十条寺。

だが、カギ爪はそれさえも見越していたかのように、くわっと掌を開いた。

当然、カギ爪も大きく広がった。

さすがに避けきれず、十条寺はシャツの左腕の部分を浅く切り裂かれる。

一方、ミユキは両腕を胸の前で交差させ、リストガードでカギ爪を弾いた。

…はずなのだが、2、3歩後ずさって、さらに床に片膝をつくとは!

その冷や汗を垂らした顔には、もう余裕の色などない。

「…重い。あいつの攻撃、べらぼうに重いわ。鉄球で殴られたような感じだった」

…く、予想以上の強敵に成長したってことかよ!?

いや、それでもネモ老人の洞窟で戦った巨大ミイラに比べれば、力はかなり格下なのだろう。

あのクラスの敵だったとしたら、ミユキも今の攻撃を受け止めようなどとは考えまい。

何しろ、一撃で岩盤を打ち砕くのだ。食らったが最後、バラバラにされている。

だが、俺たちの戦力もあの時よりだいぶ少ない。

東鳳風破の抜けた穴は十条寺が頑張ってくれているが、それでもアイリスとオベリスクがいないのだ。

少し危険だが、全員がヤツの四方に分かれて同時攻撃をかけ、前後左右から挟み撃ちにする形にしたほうがいいんだろうか…?

そう考えていたとき、少し横に並んだ俺たちに対して怪物は左腕を横殴りに振り回した。

「!」

本能的な危機が、考える前に身体を動かした。

怪物は、今度は俺たち全員をターゲットにしてカギ爪でなぎ払ってきたのだ。

ガツッ!

「しまった!」

思わず舌打ちした。

右から襲い掛かってくるカギ爪に、俺は避けるのが間に合わず、つい拳銃で体を庇ってしまったのだ。

力でミユキに数段劣る俺が、彼女が受けきれないほどの質量をあしらえるはずがない。

俺の拳銃は、あっけないほど簡単に弾き飛ばされてしまった。

そして、その余波は、他の仲間にも思いがけない被害を及ぼす結果になってしまった。

「うぐっ!」

「いちち…」

「あぅんっ!!」

俺の銃に命中したことで怪物のカギ爪は、微妙にその軌道をずらしたため、正確に軌道を見切って避けようとしていた他の3人の裏をかく結果になったのだ。

俺以外の3人は、体のどこかしらをカギ爪で引き裂かれ、腕や太ももから血の筋を垂らしてうめいている。

それでもかすり傷で済んだのはさすがと言うしかない。

「す、すまん!大丈夫かみんな!?」

「ああ、これくらいどうということはないが…ちょっと厄介な攻撃だな」

十条寺は敵を睨み据えたまま、険しい目つきで言った。

「掌底が届く位置まで接近できれば、一息に打ち込めるが、あの伸びてくる腕をかいくぐって踏み込むのは厳しいぞ」

「そ、そうだ!ルリちゃん!!」

突然、ミユキが顔を輝かせた。

「洞窟で使った、あの霊なんとかって呪符を使おうよ!
あれをまた貼ってくれたら、今度の攻撃であたしがあいつの腕を切り飛ばすから、十条寺君がその隙に…」

なるほど、霊活符か。

ネモ老人の洞窟で襲い掛かってきた、物理攻撃の効かない護衛造魔を倒したのも、それを使ってミユキたちの強力な攻撃が通用するようにしたんだった。

言われたルリもはっとしたようにミユキを見返した。

「あ、そうか!わかったわ!」

「十条寺君、ルリにお札を貼ってもらうんだ。それにはヤツの腕を切り落とせるほどの効果がある!」

あの場にいなかった十条寺は、その驚くべき効果を知っているはずがない。

俺は彼に、手っ取り早く説明してやった。

それを聞いて、彼もこちらを振り返った。

「本当か!ならば、手の打ちようは…」

そこまで言ったとき、怪物がこちらに吹っ飛んできた。まるで砲弾のような勢いだ。

体当たりだと気がついたときには、もう何をするにも遅すぎた。

それこそ、避けるヒマも受け身を取る余裕もなかった。

ドゴッと、鈍い音が大きな部屋中に響いた。

俺たちは、ボウリングのピンのように弾き飛ばされた。

もともと、俺たちは大広間の入り口からそれほど離れていたわけではない。

全員が壁に嫌というほど叩き付けられた。

ルリに至っては、ドアに叩き付けられ、勢い余って廊下まで飛ばされてしまっていた。

「ぐぐぐぐ…!!」

今のは、かなりきいた。どこも骨折しなかったのが不思議なほどである。

この体当たりでわかったが、ゴージャス男が変身した怪物は、全身が硬質ゴムのようになっている。

めいっぱい引っ張ればぐっと伸びるが、当たったときの衝撃は金属などの固体となんら変わるところはない。

ミユキが真っ先に立ち上がったが、その顔には焦りが色濃くなっていた。

「だ、だめだわ、私たちの行動はかなり見透かされているわ」

「おい、薄気味の悪いことを言うな!怪物に変身したところで、いくらなんでも相手の心まで読めるはずはなかろう!!」

十条寺が必要以上に大声でミユキを叱咤する。

ミユキと違って顔には出さないが、こいつも結構動揺しているんだろうか。

「そうじゃないわ、ゴージャス男は、オベリスクを手に入れるまでの洞窟探索を、私たちに気付かれないように監視していたのよ。
…そこは、私たちが持てる限りの技術を駆使しなければ突破できないようになっていたのよ、それを…」

「くっ! 敵を知り己を知れば、ってか?  こいつはそれを地でやってのけたのか!」

…おい、ちょっと。

話がかなり盛り上がっているようだが、その内容では、ゴージャス男が洞窟に罠を仕掛けて俺たちの手の内を探ったように聞こえるぞ?

倒すべき相手に違いはないが、やってもないことまでなすりつけるのは、どうかと思うんだが…。

とはいえ、俺たちの戦い方がヤツにほとんどバレていることに変わりはない。

現にヤツは、ミユキや十条寺の手の届かないところから攻撃し、そこからでも攻撃できる俺の拳銃を弾き飛ばし、
ルリが霊活符を使うタイミングを正確に予測して先手を打ってきた。

かくなる上は、俺のCOMPに入っている悪魔を呼び出して戦わせるしか有効な手段は思いつかないのだが…。

「御手洗、お前は悪魔召喚師なんだろう!?味方の悪魔を呼び出して戦わせろ!もう少し人数がいれば、俺が突破口を開いてやる!」

十条寺の言い方からすると、考えることは誰しも大して変わらないようだな。

しかし、そうできない理由ってやつもあるんだよ。

「だめだ」

「どうしてだ!!」

「例の白澤図がどこにも落ちてない。
…おそらく変身のときに一緒に取り込んでしまったんだろう。
ヤツにほんのちょっとでも理性が残っていたら、それを使って仲魔を操られてしまう。
かつてのジャックランタンのように」

それを聞いた途端、十条寺の顔色が変わった。

「ほ…本当かっ!?」

…あ、そうか、こいつはあの戦いの時にはいなかったんだっけ。なら、今の少々オーバーな驚きようも納得がいく。

「そ、それでどうしたんだ!?」

「…ミユキが倒した。今は俺のCOMPの中で治療プログラムを使ってデータを修復している」

「…」

一瞬黙り込んだ十条寺に、どうしたのかな?と思ったのも束の間、怪物に向き直ってやにわに仁王立ちになった。

「貴様、卑怯だぞっ!こともあろうに怪しげな術で同士討ちをさせるとはぁっ!!」

へっ?

「そんな卑怯者は、師匠の名のもとに決して許しはしない!!」

妙なタンカを切ったと思ったら、一気に怪物に踊りかかっていったではないか!

「よせ、あぶない!」

俺が止めるより早く、怪物の拳が十条寺に向かって放たれた。

だが、それを予想していたのか、十条寺はぎりぎりのところで見切った。

攻撃の体勢をほとんど崩さずに避けたのだから、たいしたものである。

一方、攻撃が空を切った怪物は、慌てて反対側の拳を繰り出そうとするが、それを許すほど十条寺は鈍くない。

1発目の拳を見切った時点で、既に怪物の懐に潜り込んでいた。

「でぇいやぁぁっ!!」

野獣のような咆哮を上げると、必殺の掌底打を打ち込んだ。

大きく吹っ飛ぶ怪物。

「何だとっ!?」

だが、驚愕の声を発したのは、十条寺のほうだった。

そして、あろうことか怪物は吹っ飛ばされながら十条寺に反撃を試みてきた。

例によって横殴りに腕を伸ばしてきたのだ。

後方に吹き飛ばされながらの攻撃だったから、ヤツにとっては苦し紛れのやり方だっただろう。

だが、苦し紛れだろうとなんだろうと、当たってしまえば深刻なことになる。

「うがっ!」

カギ爪にこそ捕らえられなかったものの、腕の部分が十条寺のわき腹に命中したのだ。

自分から攻撃を仕掛けていたせいで体勢が崩れ、かわせなかったのだ。

今度は、横方向に投げ出される。

ミユキが慌てて彼の元に駆け寄った。

「十条寺君!!」

「ち、ちくしょう…!打撃では、ヤツに半分程度しかダメージが入らないぞ、気をつけろ」

「どういうことなの?」

「あのヤロウ、全身をゴムみたいなものに変えてやがるんだ。言わば、カギ爪を持ったボールみたいな状態だ。
それが衝撃を弾き返すもんだから、俺の掌底打やお前の投げ技では、ぽんぽん弾くばかりで思うほどダメージになってない」

「…むう。あのへんてこりんな外見によらず、攻守とも侮れないわけね」

どうやら、十条寺とミユキも相手の身体の特色を理解したらしい。

今までなんとかヤツを倒そうとファイトに燃えていた目が、急に焦りの色を帯びていくのが手にとるようにわかる。

「こうなったら、無駄を承知で攻め続けるしかない。いくぞ、ミユキ!!」

「待って、それじゃあスタミナ切れを起こしてしまうわ。そうなったらヤツの思うさまよ、延々となぶられた挙句に殺されるわ!」

「しかし、他にどうしろと言うんだ!御手洗は銃を弾かれてしまったから銀の弾丸で追い詰めること

もできないんだぞ!」

…くう、せめてオベリスクでもいてくれたら!

そのとき、再び怪物が体当たりをかけてきた。

さっきのように油断さえしていなければ、予備動作が意外と大きいから避けるのは難しくはない。

が、そこで思わぬ横やりが入った。

「…!」

廊下の外で、ルリが何事か叫んだのだ。

何を言ったのかまではわからなかったが、反射的にそちらを向いてしまった。

敵の攻撃を前にして、そんなことをするのが致命的であるのは言うまでもない。

「み、みたら…!」

ミユキが絶叫する。

しかし、それも興奮しすぎて半分も言葉になってない。

気がついたときには、怪物の巨体は猛スピードで目の前まで突っこんできていた。

避けられん!

「バカヤロウ…!!」

そこに、俺を罵声する声と共に十条寺が割って入ってきた。

俺を庇おうというのか?

よせ、そんなことをしたってヤツの勢いは止まらん。

お前まであおりを食らって動けなくなってしまうぞ!

ドゴッ!

果たして、十条寺の決死の行動もむなしく、俺たちは2人まとめて吹っ飛ばされてしまった。

…今のはまずかった。

「うっ!!」

右足に激痛が走る。思うように動かせない。

というより、膝から先が煮えたぎる油の中に突っ込んであるかのような感じだ。

右足を骨折したか、少なくとも腱を痛めたに違いない。

最悪だ。これでは、戦うどころか逃げることもできなくなった。

「み、御手洗、だいじょう…ぶ…」

十条寺の声だ。

しかし、俺を気遣ってはいるものの、彼もかなりのダメージを受けている。

右手で腹を押さえている。

それに、口の端から黄色い液体が糸を曳いているし、両目の焦点が合ってない。

どうやら、腹にまともに衝撃を受けて、胃の中のものを吐いてしまったらしい。

「い、いいから、じゅうじょう…じ、自分の…心配を…」

ミユキが駆け寄ってくるのを横目に捉えつつ、十条寺に声をかけようとした。

と、唐突に頭上が暗くなる。

「!?」

見上げれば、怪物が俺たちのすぐ側に立っていてカギ爪を振りかざしているではないか!!

動けなくなった俺たちに止めを刺すつもりなのだ。

「てやああっ!」

ミユキが、怪物の足元を狙ってタックルをかける。

凄まじい勢いだ。自分の身体に返ってくる衝撃も反撃の可能性もまるで考えてない、文字通りの決死の体当たりだ。

怪物の上体が大きくぐらつく。だが、驚いたことに敵は意に介さなかった。

俺と十条寺を仕留めることに全力を注いでいるのだ!

その異常なまでに憎悪に燃える目が、まっすぐに俺たちを睨みつけている。

もう…万策尽きた!

頭上のカギ爪が振り下ろされた瞬間、俺は死を覚悟して目を閉じた。

ジュ…ジュジュジュ!

…いつまでたっても頭を砕かれるなり、身体を真っ二つにされる感触はない。

「?」

恐る恐る目を開けた。

「お、オベリスク…!」

なんと俺たちの命を救ったのは、ゴージャス男の結界で動けなくなったはずのオベリスクだったのだ。

俺の頭の真上まで振り下ろされていたカギ爪を、その腕から伸びているブレードで下からがっきと受け止めていた。

怪物は、憤怒に燃える目でオベリスクを見つめている。

あらん限りの力を込めてカギ爪を振り切ろうとしているのだろう、肩がぴくぴくと震えているが、オベリスクはびくともしない。

さらに、手首からブレードに沿って放たれているレーザーが、怪物の拳を刻一刻と焼き切っているた

め、辺りには肉の焦げる嫌な匂いが立ちこめ始めていた。

それと同時に、さっき俺たちが不覚を取ったルリの悲鳴の理由も氷解した。

廊下に叩き出された彼女は、オベリスクがここまで駆けつけてきたのをいち早く見つけたのだ。

おそらくは、彼女は予想外の援軍に思わず歓喜の声をあげたのだろうが、

室内にいた俺たちにはそれがはっきり聞こえなかったため、悲鳴と間違えたのだ。

本当に、奇跡としか言いようのない光景に、俺は束の間、足の激痛すら忘れた。

それにしても、この屋敷に仕掛けられていた罠によって行動不能になったはずの造魔が、どうしてここに…?

「オベリスク…お前、動けるのか?」

俺の疑問に、オベリスクは怪物に向けたままの首を縦に振った。

同時に、耳元で囁く声がした。

「きっと、わたしがゴージャス男の使っていた魔力を完全に中和したことで、屋敷を囲んでいた結界もその基点を失ったんでしょうね。
つまりは結界も無力化してしまったわけだから、動けるようになったオベリスクはマスターを探して屋敷中を走り回ってきたはずよ」

言うまでもない、ルリだ。

…そうか、そんな可能性はまるで考えてなかった。

ゴージャス男の怪しげな術を打ち破ったことで、こちらは大きく優位に立つことができたわけだ。

今を逃す手はない!!

「全員、体勢を、立て直…うぐっ!」

ちっ!全員に指示を出そうとして、またもや右足の痛みがぶり返してくるとは!

膝を抱えてうずくまってしまった俺のズボンの右ひざの部分を、
ルリがどこから取り出したのか小ぶりのナイフですぱっと切り裂いた。ちょうど患部のところだ。

そしてひやりとする液体を塗りつけると、見事な手さばきで金属の棒をあてがい、あっという間に包帯で固定してしまった。

「よっと…、治療おしまい」

なに!?

「たぶん骨や腱が致命的なまでにはやられてないはずよ。
もしそうなら、あの衝撃だったもの、一発で気絶しているわ。
私の見立てでは、このままでも2週間くらいで治ると思う。
でも、あくまで応急処置だから、無理なことはしないでね」

…いやはや、なんとも鮮やかというしかない手並みだ。

それに、ミユキも俺の側までやってきて、何かを手渡してきた。

何の気なしに受け取って、一瞬虚を突かれた。

さっき、俺が弾き飛ばされた拳銃ではないか。

今の今まで戦っていたこの女が、いつの間にこんなものを探してきたっていうんだ?

「お前…気が利くというのか、ちゃっかりしているというのか…」

「万が一あなたがやられたら、私がこれを使うつもりで探してきたのよ。さ、バカを言ってる間に反撃の準備をしないと」

早口でそう言いつつ立ち上がる。

…なんかこいつ、洞窟の探索以来ちょっと変わったな。

プロレスラーっぽいオーバーさやふざけたところが抜けて、なんか職業軍人みたいな一面を見せるようになったというか…。

などと考えているヒマもあらばこそ、彼女はすかさず十条寺の元にも駆け寄った。

体当たりを食らった腹の部分に湿布のような布を貼り付けた後、口に何かを含ませた。

こっちはそろそろ俺たちにも馴染みになってきた、例の体力を驚くべき速さで回復させる丸薬の一種だろう。

その証拠に、さっきまで話すこともままならなかった十条寺の顔色が、みるみるよくなってくるではないか。

すっくと立ち上がって構えを取るその動作に、さっきまでのダメージはまるで感じられない。

さらにルリは、十条寺の拳にお札を貼り付けるのを忘れなかった。

打撃では満足にダメージを与えられない相手にも攻撃が通用するようになる、霊活符だ。

と、そこで今までオベリスクとつばぜり合いを続けていた怪物が、ようやくこちらを向いた。

すでに俺たちは怪物の拳の真下から這い出していたから、充分に距離を取ることはできている。

「オアアアァァァオォン…!!」

こちらが体勢を立て直したのを今更のように知った怪物は、怒りの咆哮を上げた。

…自分の足元でこれだけのことが起きていながら、こいつは気がつかなかったとでもいうのだろうか。

それとも、それだけオベリスクという存在が目障りだったということなのか?

…あるいは、そうっだのかもしれない。

こいつは、屋敷に造魔を封じるための結界までわざわざ仕掛けてあったのだ。

それも、俺たちがここに来なければ徒労で終わってしまうようなマネだとわかっていて。

それに、さっきまでのつばぜり合いにしたって、怪物にとってはずっとオベリスクのレーザーで拳を焼かれていたことになる。

さっさと引っ込めたほうがいいに決まっていたはずだ。

怪物、いや、ゴージャス男にとっては、造魔という自分の意のままにならない悪魔は、どうしても許せない存在だったのかも。

まして、それが敵対する俺たちのものとなれば、なおさらだろう。

拳を半ばまで焼き切られながら、まったく戦う意思を衰えさせてない怪物を前に、俺たちは改めてオベリスクを中心に隊形を整えた。

こいつが来た以上、こちらの戦力は格段に上がっている。怪物に変身してまで俺たちの説得を拒んだ以上、もうゴージャス男と話すことはない。

全力で、倒すのみだ…!

30章 使徒

「たああぁぁーっ!!」

気合一閃、十条寺が先頭を切って怪物に殴りかかる。

その手には、もちろん霊活符が貼ってあるから、敵の体が衝撃を受け付けなくても関係ない。

1歩遅れて、オベリスクが十条寺の後ろからついていく形で怪物に斬りかかった。

こちらの作戦は、5人全員でほんの少しだけタイミングをずらしつつ攻撃を仕掛けるやり方だ。

人数的には5対1だが、こちらの通用する攻撃は限られている。

オベリスクのレーザーブレードと俺の銀の弾丸、ルリの道術のいくつかと霊活符を貼ってのミユキと十条寺の格闘戦だ。

戦いの最中に霊活符が剥がれるだけで、十条寺とミユキは決定打を失うし、ルリもあまりたくさんストックを持っているわけではない。

それに、今は全員戦闘中で気が張っているから自覚がないが、
今日は朝早くから洞窟探索での連戦に加えて屋敷までの道中での急襲、
この大広間にたどり着くまでの強行突破と、相当な無理をしている。

無論、適度に休息は取っているし、王大人の携帯食の効果も素晴らしいが、
ここで相手に粘られて長期戦になってしまうと、その疲れが噴き出してきて足元をすくわれかねない。

何が何でも短期決戦で勝負をつけなければならないのだ。

俺も銃の弾倉を銀の弾丸に入れ替えて、右ひざを地に付けた状態で狙いを定める。

ミユキは相手の出方次第で次の攻撃に移れるように身構えているし、
ルリは、今回は忍者が使う手裏剣のようなものを右手に掴んで投擲の体勢に入っている。

怪物は、正面から迫ってくる十条寺たちに対して、左の拳を振り上げ、彼らの真上から叩きつけてきた。

すかさず十条寺とオベリスクは左右に分かれてそのハンマーパンチをかわす。

が、怪物はそれを読んでいたかのように半分ちぎれかかった右の拳を横殴りに振り回してきた。

狙いを十条寺1人に絞っていたのだ。

危ない!と思ったが、十条寺の顔には余裕の笑みが浮かんでいる。

「そろそろその動きも…ワンパターンになってんだよ!!」

叫びつつ、胴体をなぎ払いにきた怪物の拳に、手刀を垂直に叩き込んだ。

命中の瞬間、その手にある霊活符が淡く光る。

「ゴギャアアアアア!!」

悲鳴をあげたのは怪物の方だった。

ざくっと鈍い音をたてて、怪物の拳が叩き切られたのだ。

オベリスクとのつばぜり合いによって、半分焼き切られていた拳では、十条寺の手刀に耐えられなかったのだろう。

無論、そんなカウンターを食らうなどと、怪物が予測できるはずもない。

所詮、元がゴージャス男では、ゴージャス男の戦い方しかできないのだ。

「今だ、ルリ!」

「はいっ!」

俺はルリに声をかけ、怪物の胴体に向かって同時に武器を撃ち込んだ。

ヤツの右腕はもう動かせまい。

左腕も、さっきのハンマーパンチで勢い余って床にめり込んでいる。

急所を狙う絶好のチャンスだったのだ。

立て続けに撃ち込んだ4発の銀の弾丸と、一挙動で同時に投擲された3本の手裏剣が怪物に襲い掛かる。

…しかし、ヤツも死に物狂いだった。

ヤツは、俺たちの銀の弾丸と手裏剣を、なんと切られた右腕を振り回して受け止めたのだ。

もちろん、武器になる左腕と急所を庇っての苦肉の策だろうが、そのかわり右腕はボロボロになった。

そして、その隙に左腕を床から引っこ抜くと、頭上でぶんぶんと回転させ始めた。

腕を伸ばして、全員を横殴りになぎ払おうというのか!

…なんというやり方だ。

右腕を完全に犠牲にしてまで、無理やり攻撃のチャンスを作り出すとは。

と、それを見たオベリスクは、跳ぶ方向を怪物の方に変えた。一体どうやれば壁に当たって跳ね返る

ボールのようなジャンプができるのか、と呆れるほどの急な方向転換だ。

…問題は、なぜ攻撃に移ろうとしている怪物にわざわざ突っ込むようなマネをしでかしたか、だ。

しかし、右腕をまっすぐに伸ばした造魔を見て、ある考えが閃いた。

「あいつ、…攻撃される前にレーザーで一気に急所を貫こうというのか?」

ほとんど身体を水平にして目にも止まらないような速さで突っ込むオベリスクは、まさに死神の放った巨大な矢だ。

たとえ怪物が気がついたとしても、防ぎようがないほどだ。

が。

「は、外れた!」

ルリが思わず大声を上げるほど、その結果は意外だった。

なんと怪物は、身体を横にぐいっと捻り上げて、オベリスクのレーザーブレードをかわそうと試みたのだ。

あの一瞬のことなら、まさに見事というべき判断だろう。

そのため、レーザーは怪物の身体を深くえぐったものの、致命傷を与えるには至らなかったのだ。

おまけに、的を外されたオベリスクは、必殺の突きを放った勢いのまま怪物の反対側へとすっ飛んでいってしまった。

その後に待っているのは、怪物の反撃、つまり満を持したなぎ払いだ。

ちっ、俺たちだって黙ってやられてやるわけにはいかない!

「ミユキっ!!」

「いりゃあああっ!!」

俺は、すぐ目の前で怪物の行動に対処すべく待機していたミユキに号令をかけた。

彼女こそ、今の俺たちにとっては切り札だ。

気勢を放って地を蹴った彼女は、…なんと怪物の足元に倒れこんだ!

「おいっ!?」

つい、焦って彼女を咎めるような声を出してしまったのも、仕方がないだろう。この大事な場面で、何をドジ踏んでやがる!

だが。

…びった〜ん!

ミユキが倒れこんですぐさま、今度は怪物のほうが顔から床に突っ伏した。

振り回していた左腕は、床に当たってその敷石を掘り起こし、弾みで怪物の身体を軸にして左右に激しくのたうっていたが、
急速にその威力を失っていった。

予想外の敵の失態に唖然として、そこでやっとミユキが何をしたのか思い当たった。

怪物の足元にスライディングキックをかけて、脚を払い飛ばしたのだ。

少なくとも、それで敵の出鼻をくじくことはできる。

うまくいけば、今まさに攻撃を仕掛けようとしている怪物に対してカウンターを取ることができる。

そんな彼女の目論見が、ものの見事に当たった!

そして、この激戦のなかで見つけた絶好のチャンスを、十条寺が見逃すはすがない。

「もらったあぁっ!!」

大広間中に響き渡るような怒声を上げて、怪物の上からのしかかるようにしてその胴体に渾身の掌底を叩き込んだ。

十条寺の右腕が、大きく怪物の背中にめり込む。

「ゴボオオオオォォ!!」

うつ伏せになったままの怪物の口から、青黒い体液が大量に吐き出される。

掌底打の衝撃が体内を駆け巡って相当に苦しいのだろう、怪物はのけぞって十条寺を振り落とそうとした。

だが、それでもなお十条寺は怪物の身体から離れない。

「まだだあぁぁ!もう一撃っ!!」

なんと、右腕を引き抜くのもそこそこに今度は左手を打ち込んだ!

左手には霊活符は貼ってないはずなのだが、右腕の掌底打がかなり効いてたらしい。

両手足をぴくぴくと痙攣させ、怪物は一撃目に倍する量の体液を吐き出した。

「離れろ、十条寺君!とどめを刺す!」

今度こそぐったりとして動かなくなった怪物に照準を合わせ、俺は十条寺が巻き添えを食わないように声をかけた。

必殺の突きが空振りして、戦闘から一時離脱状態にあったオベリスクも戻ってきたので、万が一怪物が余力を残していたとしても、対応できる。

十条寺も、ぱっと跳んで離れた。

これで終わりだ、ゴージャス男…!

と、そのとき怪物の身体が、急に縮んだような気がした。

なんだ!?こいつ、まだ反撃するだけの力が残っていたとでもいうのか!!

これ以上の戦闘は仲間にとっても危険だ。

頭のどこかでそう判断したのだろう、右手の人差し指が無意識のうちに動き、気がついたときには撃っていた。

銀の弾丸は怪物の左肩に命中し、そこが爆ぜて真っ赤な鮮血が噴き出した。

『あ、あいやああああ!!』

なに…?「赤い」血に、絶叫?

改めて敵を見つめると、怪物の身体はさっきまでの暗い緑色から肌色にかわり、いつの間にかカギ爪も消え失せていた。

「御手洗さん、これって…あいつ、人間に戻っていってるんじゃないの?」

ミユキも俺のところまで戻ってきたようだ。

確かに彼女の言うとおり、もはやそこには全裸の、風体のさえない中年の男がうつ伏せに倒れているだけだ。

「…さっき、十条寺さんの攻撃で、あいつは腹の中にあったものをほとんど吐き出したでしょう?
もしかしたらあれ、あいつが食べた悪魔の体だったのかしら。あれがゴージャス男の身体を怪物に変えていたとしたら、
説明がつくんじゃないですか?」

なるほどな。

今のルリの推測が正しければ、身体を変化させていた悪魔の肉体を全部吐き出してしまったから、人間に戻ったということになる。

そこに、十条寺もやってきて頷いていた。

「同感だな。さっきまでこいつから感じていた、異様なまでの気の乱れがすっかり消えている。
今吐き出したのをまた口に入れようとでもしない限り、もうこいつに戦う力は一切残っていまい」

一方のゴージャス男は、さっきからうめくばかりだ。

『うう…ううう…』

その両目からとめどなく涙が流れているのは、人間に戻ってから俺に撃たれた左肩が痛むのか、手に

入れたはすの力を全て失った喪失感によるものか、それとも祖先の悲願とやらを阻止されたのが悔し

いのか。

怪物化していた影響なのだろう、切り取られた腕は再生していないものの傷口はふさがっているが、

左肩から流れ出ている血は止まる気配を見せない。

「…ここまでだ。国家反逆罪なんてものが中国にあるかどうかは知らんが、政府に干渉しようとした以上、
お前の身柄は俺たちの手を離れる可能性は充分ある。
その辺は王大人に相談してから決まるだろうが、いずれにしろ年貢の納め時だ」

『…』

俺の言葉にも、ゴージャス男はうつろな目を見せるだけで、身じろぎもしない。

憐れなものだ。

ヤツがこれまでにやったことを考えれば決して許されないが、
今まで他人と接する必要がなかったために人との付き合い方を知らずにいた男が、
いきなり世界を治めろと言われたものだからこんなことになったのだ。

そんな男が世間と接触したって、結局のところ他人とのコミュニケーションを、力で押さえつけるという形でしか取れなかったのだろう。

…まあ、そんな男が世界を治めるというのがそもそも無茶なのだ。

そんなことを考えつつ、俺はまだ裸のまま倒れているゴージャス男を連行するため、2、3歩ほど歩み寄った。

そのときだった、真紅の光が天井からさしてきたのは。

始めは髪の毛ほどの太さしかなかったそれは、ゴージャス男と俺のちょうど真ん中にさしてきたかと思うと、
急速に太くなり、あっという間に光に包まれた人の形をとった。

驚いたことに、それに真っ先に気付いたのは、自我喪失状態にあったはずのゴージャス男だった。

赤い光を目にするなり、みるみるうちに顔に血の気がもどってきたかと思うと、目を潤ませながら恍惚の表情になった。

『おお…使徒よ…!』

「なに!?」

感極まったゴージャス男の声に、十条寺が驚く。

声こそあげなかったものの、全員が同じ気持ちだったのは明らかだ。

確かにゴージャス男の話の中に使徒なる人物が出てきたが、誰もヤツの話を全面的には信用してなかったからだ。

ヤツの背後に黒幕がいるのは間違いないだろうが、
それとて世俗に疎かった男を手品か奇術の類で自分を神の使徒と思い込ませていたにすぎない、そう判断していた。

しかし、こんな出現の仕方をしてきたとなると、その推測は外れていたと言わざるをえない。

目の前の人影は、光に覆われていて表情や肌の色まではわからないが、紛れもなく中肉中背の男性のシルエットを持っているのだ。

ホログラムなど立体映像ではありえないし、なによりその人影から発せられる赤い光には、熱気に似たエネルギーが感じられる。

…人影は、俺たちなど眼中にない様子で、ゴージャス男の前まで床を滑るようにスーっと移動していった。

そして喋り出す。

『どうしたのだ、そのありさまは』

「くっ!?」

その途端、十条寺とルリが額を押さえてかがんだ。

それを見たミユキが、慌てて間に入って2人を支えた。

「どうしたの、2人とも!?」

「あの使徒ってやつは…ものすごい思念の持ち主だ。相手と意思の疎通をしようとしただけで、
敏感な者は圧倒される。何者かは知らんが、敵に回せばゴージャス男の比ではないぞ」

そういう十条寺の額には、びっしりと冷や汗が噴き出していた。

ルリに至っては、ショックで顔から血の気が失せているではないか。

そんな俺たちのやり取りなど全く気がつかずに、人影に話し掛けられたゴージャス男は堰を切ったように喋り出した。

『使徒よ、わしは…わしはあなたから頂いた力を、全て失ってしまいました。
あなたから与えられた守りの壁は、あそこの小娘に打ち破られ、
しもべを呼ぶ力はそこの小憎たらしい若造に封じられ、
異形のものを操る書物は…最後の手段として教えられていた、自分の身体を強化するために体内に取り込んでしまいました。
どうか…どうか、祖先の悲願を成し遂げるため、あの若造どもに打ち勝てる力をお与えに…!』

裸でうつ伏せに寝転がったまま涙ながらに訴えるゴージャス男の無様な姿を、人影はじっと見下ろしていた。

ややあって。

『…これまでだな』

『は?』

人影が呟いた一言の意味が理解できず、聞き返すゴージャス男。

「ん?」

俺は、つい疑念の声を発してしまった。

先ほどに比べて、人影を包んでいる赤い光が、さらに赤みと強さを増したような気がしたのだ。

それを証明するかのように、人影の声に憎悪と苛立ちが混じった。

『この国を揺るがすどころか、差し向けられた刺客すら追い払えないとは。そんな愚か者…!』

言うが早いか、人影は光に包まれた右手を一挙動でゴージャス男の額に走らせた。

『!』

「!」

両目を真ん丸に見開くゴージャス男

。俺たちも、その瞬間に起きた出来事に、絶句してしまった。

ゴージャス男の頭は、いつの間に現れたのか人影の右手から伸びている光線に貫かれていた。

オベリスクのレーザーブレードが、マンガのようにいつも目に見えるとしたらああいう風になるのだろうか。

もちろん、一瞬で絶命したゴージャス男の目には、もう光はない。

やや上方から頭を貫いた人影の光線は、ゴージャス男の背骨まで達していた。

後頭部と下腹辺りから血と体液が流れ出し、みるみるうちに血溜まりを作っているところを見ると、光線はヤツの背中をも貫通しているのだろう。

どういうことだ!?ゴージャス男は、この使徒を名乗る何者かの手駒ではなかったのか?

それが1回失敗しただけで、こうもあっけなく命を奪われるなんて!

いくら失態に腹が立ったからといって、自分の手でこれだけの力を与えた手下を簡単に切り捨てるような奴は、およそどこの秘密結社でもいまい。

理由は簡単。

他の手駒を探してくるのは、かなりの無駄になるからだ。

それなりの資質を持つものを探し、力を貸し与え、実行させる。

これらを全て自らの手で、それもゼロからやり直さなくてはならなくなるのだ。

そんなことに労力を割くくらいなら、もう一度チャンスを与え、失敗した件については対策を立てて同じ失敗を防ぐ方がはるかに効率がいい。

だというのに、そのセオリーすら無視してこいつはゴージャス男を手にかけた。

…そういえば、今のセリフもどこかおかしい。

その真意まではまだわからんが、こいつは、ゴージャス男に世界を支配させようとしていたはずだ。

そのために、常識はずれの力まで与えている。

だが、ゴージャス男を殺す瞬間に言った一言からは、そんなニュアンスは感じ取れなかった。

こいつは、この国を揺るがすこともできなかった、としか言わなかった。

部下に失望したことを伝えるときは、そいつに期待した最終目標を告げるのが上に立つ者のやり方だ。

自分にかけられた期待を思い知らせ、それに応えることができなかったことを後悔させる。

それが常套手段なのに。

人影は、ことゴージャス男を殺す瞬間に至るまでそれをしなかった。

考えられる可能性は、こいつの本当の目的は中国だけの混乱だったということになる。

だとしたら一体、こいつの真意は何なのだ!?なぜ世界征服などという無茶をゴージャス男に押し付けた!?

と、ゴージャス男の頭から右手を離した人影が、こちらを向き直った。

『お前たちか。この国を守ろうとするのは…』

そして、俺の顔を正面から見据えた。

さっき十条寺とルリが立ってられないなかったほどの思念とやらが、まっすぐに俺に叩き付けられる。

…いや、もはや鬼気と呼ぶべきレベルじゃないだろうか。

『今までのお前たちの戦い、見ていたぞ。お前のその統率力さえなければ全てはうまくいったものを』

そういうなり、人影は赤い閃光と化してこちらに向かってきた。

「あぶない!!」

次の瞬間、誰かに横から突き飛ばされた。

ごろごろと床を転がされるハメになって、一瞬に腹を立てたが、体勢を立て直して落ち着いた瞬間、そんな怒りは吹き飛んだ。

「み…ミユキっ!!」

なんと、ゴージャス男を刺し殺した人影の光線が、ミユキのわき腹を貫いているではないか!

それも、突き飛ばされるまで俺が立っていた場所である。

そうか!人影は俺たちに襲い掛かってきたのではなく、俺1人を目標にしていたのだ。

鬼気に当てられて、動けなくなっていたのに気がついたミユキが、
俺を庇うために体当たりをかけて、代わりに光線の餌食になってしまったのだ。

ミユキは苦悶の表情で、それでもなお人影を睨みつけていたが、ついにはがっくりと膝を折ってその場に崩れた。

「ミユキさん、ミユキさん!しっかり!!」

俺とルリが彼女に駆け寄る。それを守るように、十条寺とオベリスクが人影の前に立ちはだかった。

「ミユキ、気をしっかり持て!」

俺も自分の命を庇ってくれた彼女になすすべがない、なんて言ってはいられない。

COMPを起動し、ユウカを召喚した。彼女の治療魔法なら、きっと…!

空中に描き出された魔方陣から飛び出てきたユウカは、今までの経緯を全て見ていたのだろう。

何も言わずに頷くと、ミユキの傷口に手を当てた。

その手から、柔らかい光が溢れる。

ルリもミユキの口から何かの液体を飲ませている。

2人とも懸命な眼差しだ。

だが、俺は仲間の重傷に気を取られたことで、自分が狙われているという自覚を完全に失念してしまっていた。

『身を挺して庇おうとする者がいるとは、大した人望だ。ならば、今一度…』

その声を聞いたと思うやいなや、人影は十条寺とオベリスクの前から忽然と消えた。

そして、次の瞬間には、またもや俺の目の前に立っているではないか!

「ひっ…!」

「御手洗っ!!」

再び赤い閃光と化して俺の心臓を刺し貫こうとする人影に対して、今度ばかりは俺は身を守る術がなかった。

悲鳴をあげることすらままならないほど鋭い突きだったのだ。

俺と人影の間に割って入ったはずの十条寺とオベリスクが、いつの間にか後ろを取られているのだ。

やられる!!

「…」

が、俺の体を刺し貫こうという直前で、人影はすっと右手を引っ込めた。

そして、まだミユキの血が生々しく付着したままの光線を、しげしげと見つめた。

『む…?お前たち、この国の者ではないのか?日本人か?』

「…はい?」

我ながら間抜けな返事だとは思ったが、この丸きり見当違いな質問には対応できなかったのだ。

それに、さっきまで相手を金縛りにかけてしまうほど凄まじかった鬼気が、きれいさっぱり消え失せているのも拍子抜けしてしまった原因の一つだ。

『ならば』

短くそう言うと、人影は両手を合わせて印を結んだ。

その途端、俺の脳に無理やり入り込む形で、何かの映像が浮かび上がる。

「ぐ…ぐぐぐ…!」

実際に目で見ている光景と、こいつが見せようとしている映像を問答無用で入れ替えられるような、とんでもない違和感と不快感に、唸らずにはいられない。

…それに、自分以外の声も聞こえてくるということは、この相手は、一度に俺たち全員に同じイメージを見せようとしているのだろう。

どのみち、頭の中を中途半端に他人にいじられているような状態で、あまり考えことに集中できるはずもない。

俺はこの場はおとなしく、奴が見せようとしている映像に意識を集中した。

…どこの映像だろう。

ボロボロになった、中央アジア風の寺院らしき建物が見える。さほど大きいものではない。

もう誰も参拝に来る人がいなくなって、100年やそこらでは済まないだろう。

その周囲には、真っ白になった巨大な岩が転がっている。

草木1本見当たらない上に砂埃が舞っているし、どこか高原の乾燥地帯だな、と思った。

『今の場所は、チベットの我が寺院だ。そこに来たなら、吾がこの騒動を企てた理由を、真意を、そしてこの国の真実をお前たちに話そう』

「…」

人影の申し出に、俺はやや間を置いて切り返した。

「チベットのどこかもわからないのに、ただ我が寺院に来い、じゃどうしようもないだろ。だだっ広くて交通網も充分に発達してるとは言いがたいのによ」

人影の答えには、なぜか親近感を感じさせるものが含まれていた。

『案ずるには及ばぬ。チベットの国境をくぐれば、お前たちがどこで誰に話し掛けようとも、
必ず我が元にたどり着けるようにしておく。言葉も心配する必要はない。日本語で通用するようにしておこう。
…お前たちには、この中国という国の本当の姿を知る必要があるゆえに…』

その言葉を最後に、人影は消え失せた。

意外な展開に面食らい、しばらく誰もその場を動かなかった。悪魔であるユウカさえも。

「…はっ!!ミユキ!」

そのユウカが、真っ先に我に返った。ルリもはっとした様子でミユキの元に行く。

さっきのイメージの介入で、2人が中断を余儀なくされた治療を大急ぎでやり直し始めた。

ミユキは、既に意識がない。

かすかにその豊かな胸が上下しているから、今の治療の中断が命取りとなったわけではなさそうだが、重傷であることに変わりはない。

しかし、刺されたときに比べれば、傷口は格段に小さい。

ユウカの回復魔法の効果は絶大だ。

…だが、さっきとは違って、脂汗を流して苦しそうにうめいているのはどうも気になる。

ややあって、ユウカが悔しそうに顔を上げた。

「ちっ!さっきの中断がまずかった。傷口はどうにかふさいだが、細菌に侵された可能性がある!
…一気に傷口を塞いでしまえば何とかなったのだが」

「まさか!こんな短時間でか!?」

「ここは日本のように、異常なまでに滅菌消毒が行き届いている国ではない。
それに外国ともなれば、自分の国ではかかることのない病気のウイルスにやられることもある。
そうなったら非常に危険だ。さっきの傷のダメージで体が弱っているところに、免疫のない病原菌が入り込んだら…」

俺はユウカの言葉に、思わず彼女の両肩を力いっぱい掴んでしまった。

「くそっ!どうすればいいんだ!!」

そんな俺の様子を、ユウカはつらそうな目で見て、俺の両手を優しく押さえた。

「施設の整った病院に連れて行くのが一番いいだろう。
…だが今の彼女の様子からいくと、厄介な病原菌にやられた可能性が高い。
それに傷のこともある。
入院させられるのは確実だろう。
そうなれば、しばらくは一緒に戦えなくなる。
…わたしもつらいのだ、そんな目をするな、左京」

「…」

くそう…。ここまできて、せっかくゴージャス男を倒したというのに、その後で3人目の脱落者を出すことになるなんて!!

そこに、ルリが無理に抑揚を抑えた声で俺に話し掛けた。

「御手洗さん、私も同意見です。
ここは、早くミユキさんを病院まで運ぶのが何を置いても最優先です。
…父には先に連絡して、手配を頼んでおきますので」

言い終わるやいなや、彼女はくるりと後ろを向いた。

そして、携帯電話を取り出すと、なんと涙声で話し始めた。

…そうか、自分たちで治療していた仲間を、自分たちの不注意で脱落させてしまったのだ。

一番つらいのは、間違いなくルリとユウカのはずだ。

俺が悔しがっている場合じゃない。

やっとその事実に気がついて、俺は冷静さを取り戻すことができた。

立ち直った俺の様子を見て、十条寺が早く指示を出せ、と促してきた。

「…よし、まずはミユキを王大人飯店まで連れて帰り、病院まで運んでもらう。
そのあと、日本のマダムに今のことを連絡し、今後の方針を仰ぐ。すぐに取り掛かるぞ!!」

(中国編 完)