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31章 報告

俺たちが王大人飯店に戻ったときには、すでに午後10時をまわっていた。

にもかかわらず、王大人たちは既にミユキを病院まで搬送するための、万全の準備を整えてくれて いた。

ルリからの連絡のおかげだ。

出迎えてくれた王大人に、いつもの笑顔はなく、いつでも動けるようにという臨戦体勢であり、彼 女を救おうとする気迫がみなぎっていた。

「皆さん、とりあえずはご苦労様でした。

さ、後は私たちの方で引き受けます、ミユキさんをこち らへ」 「お願いします」 俺は一礼すると、
十条寺とオベリスクに手伝ってもらって3人がかりでミユキを車から降ろした。

ここまで連れ帰るまでの2時間あまり、ミユキは一向に回復する兆しを見せなかった。

もともと、彼女はプロレスラーであるから体力面では他の仲間より格段に優れている。

無論、免疫 なども例外に洩れず、少々の毒であれば戦闘にも差し障りないほどの耐久力を誇っている。

にもかかわらず、今の彼女からはそんな力強さは微塵も感じなかった。

体を内部から蝕む苦痛にあ えぐ、ただの女性でしかなかった。

彼女の顔を一目見た王大人は、たちまちきりりと眉根を寄せた。

そしてスタッフの1人を呼び止めて、なにやら指示を出したようだ。

言われた男は、王大人に劣ら ず険しい表情になって、携帯電話で連絡を取り始めた。

一方、指示を出し終えた王大人は、俺たちに向き直った。

「これはまずい。
急所は逸れていますし、病原菌の感染はないようだが、
傷自体がかなり深いし、 この傷は体の回復力を妨げる呪いの類でつけられたものですね。」

 「え!?」

 呪いでつけられた傷?

なんやねんそれは!? 

非科学的ここに極まれりという単語に一瞬凍り付いてしまった俺に代わって、十条寺が喋った。

「…もしかして、あの人影の手から伸びていた光線のことじゃないか?」 

「まあ、それしかないわよね。
でも、呪いでつけられた傷だなんて、思いもよらなかったわ…」 

ルリの感想を受けて、王大人が説明を始めた。

その間にもミユキは担架で担がれ、俺たちがネモ老 人の洞窟まで乗っていったワゴン車に乗せられていく。

「実に巧妙な呪いです。
ぱっと見ただけでは、剣で刺されたようにしか見えません。
医学と呪術の 両方に長けた者でなければ、決してその傷の正体に気付かないようになっているのです。
治療法を誤 り、普通の外科的療法だけで終わらせてしまったら、いつまでたっても内出血が止まらず、
徐々に衰 弱していき、ついには死に至るというものです。」

 その言葉に、最も動揺したのはルリだ。

「そ、そんな…父さん!!わたしとユウカと、2人がかりで治療したのに、ダメだったって言うの!? ミユキさん、死んじゃうのっ!?」 

「焦るな。私がついている限り、そんなことにはさせない。
今、彼女を運ぶ病院に、知り合いの呪 術師にも駆けつけてもらうよう連絡を取らせている。
腕の確かな人だから、必ずや呪いを解いてくれ るだろう。それなりに時間はかかるが、必ず彼女は助かる。」

 「…よかったぁ」

 やっと安堵のため息を漏らした娘に、王大人は少し笑いかけた。

「それにしてもお前、腕を上げたな。
傷の治療だけで見れば文句なしだ。
呪いについて疎かった以 上、治療後の様態を診て病原菌に感染したと判断するのは仕方がない。
医師としては、もう一人前だ。」

 「あ、あは…。父さんに面と向かってそう言われると、なんか照れる、な…」 顔を赤くして俯きかけたルリ。

しかし、王大人はその直後、声を固くした。

「だが、ラ…いや、ルリ。
お前が医師ではなく、道術師を志しているのなら、医学以外の治療法や その症状についても詳しくならないといかん。
呪いについても、きちんと治療術を勉強していたなら 気がついたはずだ。
まして、今のお前が、御手洗さん達の治療を一手に引き受けているというならな おさらのこと。
私の元を離れて1人で自分のやりたいことを修行するのも良いが、中途半端なままの 技術で仲間を困らせるようなことは絶対にならん!」 

黙って下を向いたまま聞いていたルリだったが、最後の恫喝にはびくっと全身を震わせた。

彼女にとってはかなりつらい説教に違いない。

中国人である彼女が中国人を嫌っているという矛盾を抱えていることからして、親である王大人と の折り合いが良かったはずがない。

その親の元で、中国に古くから伝わる技術を学ぶのも苦痛だったのではないか。

それに耐え切れなくなって家を飛び出し、本来の名前を捨てて自分で日本名を名乗ってまで、やり たい事をやろうとしたのだろう。

そして今、親からの教えを半ばにして投げ出したツケを、仲間の脱落という形で払う結果になったのだ。

彼女が受けたショックは、きっと当事者でない俺たちには想像できないほど大きいものがあるだろう。

そう考えると、口を挟まずにはいられなくなった。

「…王大人、あまり彼女を責めないでください。

彼女が独力で身に付けたと思われる技のおかげで、 我々が命を救われた場面も多いのです。

もし、あなたがルリを責めなければならないことになっているのだとしたら、…それは、一同を率いていた俺の責任です。」

 王大人は、一旦娘から目を離すと、俺に向かって微笑んだ。

「大丈夫ですよ。
親としてのけじめをつけたまでです。
長く離れていたとはいえ、娘のことは誰よりも知っているつもりですよ。」 

そして再びルリに話し掛けたときには、もういつもの穏やかな口調に戻っていた。

「どうだ、もう少し私の元で治療術をやり直してみる気はないか。
お前の上達ぶりは大したものだ。
新しいことを2、3覚えれば、その後は自力で修行できるはずだ。
自分のやりたいことは、その後でも 遅くはないと思うが?」 

「…うん」 ルリは、少し悩んだ様子を見せたが、小さく頷いた。

「ただ、みんなの任務が終わるまで、もう少し待って。

…あのゴージャス男、自分は太平天国を打 ち立てた洪秀全の子孫で、目的は太平天国の再興だと言ってたの。」

 「な、なんだと!?」 

「しかも、それで話は終わりじゃなかった。
彼をあやつっていた黒幕は、自分の姿を隠してた。
ミ ユキさんを刺した後、彼女たちが日本人だとわかると急に態度を変えたのよ。
そして、それならチベ ットの我が元に来いって言ったの。
その辺は、電話で話す余裕はなかったけど。」

 「…」

 「わたしには、あの人影…黒幕は、中国人だけを敵視しているような気がしてならない。
御手洗さ んたちが日本人だとわかった途端、親しげな態度さえ示したわ。
一体どういうことなのか、確かめな ければならないと思うの。
…1人の中国人として」 

そう言ってから、ルリは慌てて付け加えた。

「誤解しないでよ、中国人が嫌いなことに変わりはないわ。
それでも、大勢の人たちが事情も知らずに巻き込まれたし、
一時はこの国がひっくり返る可能性すらあったから、人ごとじゃないって感じ ただけ。」

 そこまで黙って聞いていた王大人は、一言だけ言った。

「成長したな、ルリ。」

 「え…?」 

思いがけない言葉に目を丸くした娘に、王大人はかんで含めるように付け加えた。

「お前は自分の感情は捨てないでいるが、必要とあらばそれを越えた冷静な判断を下せるようにな ったんだな、と言ったんだ。
娘が人間としてそこまで立派に育ったことは、親である私にとっても誇 りだよ。」

 「…はい」

 だが、そう言って娘を誉める王大人の顔には、嬉しそうな表情がない。

どうも、口にしたくてもで きないものを無理に自分の中に押し込んでいるように見える。

…それがなんなのか、俺たちには想像がつかない。

しかも次の瞬間には、王大人はいつもの笑顔に戻っていた。

「とにかく、こんな遅くまで大変でした。

朝早くから出かけていらしたし、皆さん顔に疲れが出て います。

今日はもう寝たほうがいいですよ」 「…そうですね、申し訳ありませんがそうさせていただきます。

報告しなければならないことも多 いのですが、明日にさせてもらって…」 

「もちろんですよ。ささ、部屋に戻ってくださいな。」

 その言葉を受けて、俺たちはめいめいの部屋に引き上げた。

ベッドに横になった途端、すうっと意識が遠のく。

自分でもびっくりした。

こんなに疲れが溜まっていたとは。

昼間、十条寺と出会ってから夕方まで の仮眠は、決して短時間ではなかったのに。

…などと、冷静に考えていられたのも束の間だった。

次に気がついた時には、もう翌日だったのだ。

それも、午前10時をとっくに過ぎていた。

…ちくしょう、寝た気がしねえ。

まだ頭の奥にこびりついている眠気を払うため、無理やりに上体を起こした。

「…あれま」 体を起こしてから気がついたのだが、なんときっちり寝巻きに着替えているではないか。

夕べ、着 替えた記憶はない。

寝苦しさのあまり、寝ぼけて無意識のまま着替えたんだろうか? 

「…まあいいや」 そんな些細なことは気にしなくてもいい、今日の俺には頭の痛くなるようなことが山積みになって いるのだから。

第一、骨折か靭帯の損傷かと怖れていた右足がまるで痛くない。

寝る間際に王大人に処方してもらった軟膏が、ここまでの効き目だとは。

…まあ、それでもこの手の傷はどうがんばっても時間がかかるものだから、あまり無茶をすること はできないけど。

さて、まずは、何をおいても日本のマダムに連絡をしなければ。

実は、俺は中国に来てからここまで、彼女に定時連絡らしいことをほとんどしてなかったのだ。

本来ならば決して許されることではないが、ゴージャス男が王大人たちの通信網までも壊滅に追いやったために、
彼らの通信手段をよそ者の俺たちが使うことはできなかったのだ。

もちろん、王大人に掛け合ってみて無理だった、というのではない。

使わせてと言えば、向こうはだめとは言わなかっただろうが、
残された通信手段だけで四苦八苦し ている彼のスタッフたちを見ていると、
横取りしてまで使うというのは気が引けたし、
事情を聞いたマダムも、それならば判断に困ったときだけ連絡をしてくればいいと言ってくれたからだ。

だが、ターゲットとしてきた人物が死んだ今、今後の方針をどうするかという大きな問題は、俺1 人で結論を出すことはできない。

部屋を出てリーを探し、王大人にはあとで報告に向かうからと言づてを頼む。

「あいや、わかった。先に日本に連絡するか?」 

「うん、ゴージャス男が死んだ今、王大人には今後の方針を固めてから報告したほうが、むしろい いんじゃないかと思ってな」 

「あいや。がんばれな」 そう言い残して、リーは踵を返した。

…はて?ただ、報告するだけなのに、何をがんばれと言うんだ、やつは?

 「…いや、ただ報告するだけじゃ済まないよな」 

自然に、愚痴に近い独り言が洩れる。

今更ながらだが、報告内容がかなりシビアなものになることに気がついたからだ。

中国についてから、わずか4日で当初の任務を達成したのは、組織でも相当高く評価されるはずだ。

だが、そのために払った代償は、決して少なくない。

まず、ミユキが重傷でパーティから脱落を余儀なくされた。

そして、組織の構成員ではない、マダムの友人だというだけでついてきてくれていた東鳳風破にま で重傷を負わせた。

さらに、ルリが俺たちのパーティで戦っているのも問題だ。

彼女は、依頼者の家族ということにな るから、戦闘に参加させて危険な目に遭わせるなど、本来ならあってはならない。

極めつけが、ゴージャス男はただの手駒に過ぎなかったのに死なせてしまったということだ。

ゴージャス男が首謀者だと思っていて死なせたのならともかく、俺たちはヤツの背後に黒幕がいる ことに薄々ながら気がついていたからなあ…。

こういう場合、黒幕の情報源としてゴージャス男のような立場の敵は、殺さずに捕虜にしなくては ならない。

敵の刺客から守ってやることも含めてだ。

あの場で、俺たちは黒幕の度肝を抜くような出現に対して驚きはしたものの、息つくヒマもなかっ たわけではない。

その気になれば、ゴージャス男の殺害を防ぐ手立ては何か取れたはずなのだ。

…せめてもの救いは、ゴージャス男は口封じのために殺されたのではなく、黒幕である人影の逆鱗 に触れた形で、衝動的に殺されたということだ。

気まぐれで部下を手にかけるなどということが起きるとは普通想定しないものだから、そういう点 ではいくらか面目も保たれる、が。

…手下の懇願に処断を以って応えるような相手。

一体、あの敵の目的は何なのだろうか。

夕べルリが王大人に言っていた、『あいつは中国人に対してだけ敵意を持っている』という発言は
単なる直感でしかないのだろうが、ある程度根拠を持つ意見でもあるのだ。

あいつは、確かに俺たちが日本人であることを見抜いてチベットに来いと言った。

それも、親しげ な雰囲気さえ漂わせてだ。

その一瞬前までは、間違いなく殺そうとしたのに。

やつは、中国を守る者なら殺すというスタンスを取っていた。

確かにそういう意味では、最初に俺 たちを中国人と間違えたのも無理はない。

…となれば、人影の正体は、中国人に対する恨みを持つ者だというのが最も妥当な推理だ。

それが彼女に、ああいう発言をさせた理由だろう。

わからないのは、どうしてチベットまで行く必要があるのかという点だ。

ちゃんとした理由があるなら、あの場で俺たちに話せば済むことだ。

それに、チベットにたどり着きさえすれば、自分が導きたいあの寺院まで行けるよう手配をしてお く、といった内容を言ったのも不可解だ。

まるで、自分がチベットの全てを手中に収めているかのような…。

…わからない。

やつの正体については、報告するのは止めておこう。

推論の域を出ないことを並べ 立ててマダムを混乱させるより、事実だけを告げて次の指示を仰ぐことにしよっと。

とりあえず自分の中で報告内容をまとめて、俺はルリに電話を借りた。

普通の国際電話をかけて、逆探知やら何やらをされる前に手っ取り早く済ませてしまおうと思って いたら、なんと王大人とマダムの専用回線を貸してくれた。

もちろん、相当セキュリティの高いものだ。

ゴージャス男の度重なる襲撃のため、復旧したくてもできなかったのだが、部外者の俺たちが戦闘 を担った形になったため、
余裕ができた王大人飯店のスタッフが急ピッチで復旧したというのだ。

ありがたくそれを使わせてもらうことにする。

直前の予定通り、自分たちの任務を達成したこと、それに伴った代償をすべて話す。

受話器の向こうのマダムは、俺の報告が終わるまでほとんど口を挟まなかった。

ただ、その声がど んどん渋くなっていくのは俺としてもつらい。

「…以上が、現時点での状況です。
こちらとしては、すぐにでもチベットに向かうべきと思いまし たが、
王大人と家族にも相当な負担をかけてしまっているので、
一度日本に戻って戦力を立て直して から出直すべきかとも思ったので、
指示を仰ぎたいのですが」 

『…』

 返事は、すぐには返ってこなかった。

ややあって聞こえてきた声は、意外なことを言ってきた。

『御手洗、王大人と代わってもらえますか?』 「え?あ…はい」 受話器を耳から離し、横で待っているルリに向き直った。

「ルリ、王大人を呼んできてくれ。

マダムが話したいって言っている」 「はい」 ルリは部屋を出て行くと、王大人を伴って戻ってきた。

一礼して、受話器を渡す。

「はい代わりました、お久しぶりです。
…はい、
…はい、
…いえ、私も娘もそのようなことは気に してなど…
いえ、ですから今までと同じように御手洗さんにこき使って頂いて結構で、
…そうです、
 彼がいなければ、被害は10倍になっていてもおかしくありません。
…何と言っても、彼が…」 ぱたん。

俺は一旦部屋の外に出た。

結構長くなりそうに思ったからだ。

ルリも同じことを考えたのか、黙っ て後についてくる。

それに、横で立ち聞きするのも失礼だったしな。

思った通り、話は長かった。

実に10分も待たされた。

ドアを開けて俺を部屋に招き入れた王大人は、話が長くなったことを詫びる。

ただ、ルリにはまだ 外で待つように言っていたのはどうにも不自然だった。

「どうして、父さん?わたしも御手洗さんたちのメンバーなのよ!?」

 ルリがそう言って抗議するのはむしろ当然だったが、王大人は結局ルリを部屋に入れなかった。

「お待たせしました。マダムは、改めてあなたに調査の継続をお願いしたいそうです。」

 そう言って、王大人は俺に受話器を渡した。

それから聞こえるマダムの声には、もう迷いはなかっ た。

『御手洗、装備の補充ができ次第、チベットに向かってください』 

「は…はい!」

 『王大人も、娘さんがあなたに仲間として同行してくれることを快諾してくださいました。
それに、 あなたの報告と王大人の話を聞く限り、被害は必要最小限のものと考えて良さそうですね。
何よりも、 あなたが事件に乗り出してからは死亡者が出てないことを、王大人はことさら高く評価していました。
引き続き、チベットに来いと言った敵の真意を掴んできてください。』

 「はい、それで、相手が危険と判断したときは…」

『あなたに任せます。
相手は一国家を転覆しようと目論む者を手駒として使っているのですから、 
被害が大きくなると判断したら、排除してください』 

つまり、あの敵の出方次第によっては、殺しても構わないということだ。

「了解」 返事して、電話を切る。

「王大人、我々はチベットに向かいます。

本来であれば、昨日の詳細を報告すべきところなのですが、仲間たちに追加任務のことも知らせておかないと…」

そこまで言ったところで、王大人は大丈夫だと言って笑った。

「昨日のことは、夕べ娘から詳しく聞きました。
娘も含めてみなさん、なかなか大変な目に遭われ たようですね。
こちらのことは気になさらないでくださいな。」

 …うう、そうまで言われると、かえって恐縮してしまう。

「お気遣い、痛み入ります。
それではこちらは準備が整い次第、チベットへ向かうことにします。
王大人、重ね重ねお手数をかけますが、手配の方をお願いできますか?」

 と、その途端王大人の顔が曇った。

昨夜、黒幕の話を聞いた後でルリを誉めたときの表情と同じだった。

「…わかりました。
なんとか、皆さんを今日中には立ち入りできるようにしておきます。
…ちょっ と強引な方法になりますが、入域許可証を偽造して特別チャーター機を用意しないと。」

 なにぃ!!

 俺たちをチベットに行かせるためだけに、通行許可を偽造した挙句、飛行機を1機用立てる!?

 いくら王大人でも、そこまでできるものなのか! 

「な、な!?…何もそこまで、切羽詰ったようなことをしなくても…。
いつまでに来い、と言われ た訳でもないし…」 

自分でも泡食っているのがわかる。

おそらく、目を白黒させながら意味不明なことを言っているに違いない。

だが、王大人はそんな俺の醜態をまるで気にしてないかのように続けた。

「そうですか。
しかし、正規の手続きを踏んでいては、チベットに入れるのは何日も伸びることが あるのです。
…それまでにしびれを切らした敵が、今度はどんな手で襲ってくるか、もう私には想像 がつきません。
…それよりは、完全に根回しをしてしまった方が確実です。」 

「…はあ」

 もう、俺としては、そう答えるしかない。

王大人の方でも、政治的な暗躍とか駆け引きなどということをやっていて、その成果を使おうというのはわかるが、それでも破格の政的パワーだ。

…だが、最初の驚きが収まると、少し冷静になれた。

そこで初めて気がついたことがある。

ルリを部屋に入れようとしなかった点だ。

もしかして王大人は、自分がそういうことができることを娘には知られたくなかったんじゃなかろ うか。

…いや、違うか。

彼女とて大人だ。

こういう世界に首を突っ込む覚悟があったのなら、入域許可証 の偽造や非合法なチャーター機の手配を知ったくらいで動揺することはないだろう。

となれば、王大人が隠したかったのは何なのか?

 …もう考えられる可能性は、そこまでしなければならないほどチベットの件の解決を急いでいる、その理由くらいしかない。

敵がゴージャス男だと思い込んでいたときには、決して見ることのなかったほどの焦りようだ。

王大人は、チベットに関する何をルリに知られたくなかったんだろうか? 

必死に解答を探す俺に、王大人は元の表情に戻って告げた。

「さ、私も準備に取り掛かります。御手洗さんも、そろそろ。」 

「あ、そ…そうですね。」

 王大人に送り出されるようにして、部屋を出る。

廊下には、もう待ちくたびれましたと顔に書いたルリがいた。

「もう、父さんたら…!せっかく待ってたんだから、あたしにも話してくれてもいいでしょうに。
そう思わない、御手洗さん!?」

 「ん…まあな。ただ、話の中に、俺個人宛てに上司からの伝言もあったから、必要以上に気を回し てしまったんじゃないかな。」

 ルリに自分の憶測を告げるのもためらわれたし、ろくに返事をしなければ俺に八つ当たりされるのは目に見えていたから、とっさにそう言って誤魔化す。

「あら…そうでしたか。だったらしかたないわ。で、やはり…」 

意外にあっさりと機嫌を直したルリは、今度は真顔で俺を見た。

彼女もチベット行きを確信しているのだ。

「ああ、王大人が手配してくれる。マダムも、禍根を元から断つつもりのようだ。
チベットに行っ て一連の事件の裏を調べるぞ。十条寺にも伝えなきゃな」 

「はい!」 

力強く答えた彼女は、十条寺のいる部屋へと走っていく。

それを見送りながら、俺は、何か釈然としないものが胸に積もるのを感じていた。

今回の件、何か自分たちの手に余る意思のようなものが絡んでいる。

王大人の態度が、それを明白に語っている。

俺たちへの協力は惜しむつもりなど毛頭ないが、その 真相を明かすことは口が裂けてもできないというあの素振り。

そして、相手が中国人か日本人かというだけで、ころころ態度を変える敵。

今更この2つを切り離して考えるというのは、無理だろう。

王大人は、敵の黒幕に何らかのつなが りがあるか、少なくとも真相に心当たりがあるのだ。

その真相が、チベットにいる黒幕に会おうとしている俺たちにとって、果たして不利になるものな のか、それとも…。

32章 支配者

結局、王大人がその日のうちにチベット行きの飛行機を手配することは無理だったようだ。

さすがにもよりの空港からチベットまで、などという都合のいい話は実現しなかったのだろう。

定員10人以下の小型機でそんな長距離を飛ぶのは航続距離の関係で困難だし、第一、乗るのが半分 は人間じゃないとなれば尚更だ。

むろん、オベリスクとユウカのことである。

そんな問題を吹き飛ばすほどの大型機を調達してくるのは、さしもの王大人でも無茶な話だった。

そこで、俺たちは正規の航空便が出ているという成都まで陸路で向かい、そこから王大人の用意し た飛行機でチベットに入ることになった。

「…というわけで、今日1日は移動のために費やすことになる。
別段あの人影にはいつまでに来い、 といわれたわけではないから問題ないと思うが、
何か質問はないか?」 

今回は、拠点から目的地まで出向き、そこで作戦行動に移るという、比較的オーソドックスなミッ ションだ。

全員を集めて、事前にこのように打ち合わせを行なうのは、むしろ当然である。

もうすぐ出発だから、準備が必要だったら急がなければならない。

それに、これからは特に支障がない限り、ユウカもCOMPから出しておいて任務に積極的に参加してもらうことにした。

彼女は悪魔と合体する前は人間だ。

詭弁じみているが、純然たる悪魔とは違うわけだから、パーテ ィメンバーとして扱われる権利もあるはずだ。

…と、仲間に説得したものの、誰もそれで納得しなかった。

結局、彼女に対しては俺が全て責任を 負うという事で承諾してもらったのだ。

自分でも、なぜ彼女にそこまでこだわるのかよくはわからない。

しかし、ゴージャス男を刺し殺した人影にミユキが襲われ、彼女が全力を尽くして治療を試みてく れたとき、
そして俺がリーダーとしての立場を忘れて彼女に掴みかかったとき…、どうしても彼女に 傍にいて欲しくなったのは事実だ。

これは一体、どういうことなんだろうか? 「ならば、その間にチベットについて調べておきたい。

よく秘境の地域、とは耳にするが、実際の ところどういう土地なのかよくわかってないからな」 そう言ったのは十条寺だ。

俺もその声で我に返った。

一見もっともらしく聞こえたものだからついつい納得して、こうルリに振ってしまったが。

「なるほどな。…ルリ、チベットに関する資料は、ここで揃えられるか?」 

「う〜ん、あるにはありますが、全部中国語なので…」 

ルリの答えは、ここが中国である以上、しごく当然のものだった。

これまで彼女たちと当たり前のように日本語で話してきた十条寺は、珍しく口ごもった。

「ぐぐぐ…、それはちょっと…」 

「語るに落ちる、というわけですね。」

 ルリが器用にほほほと笑った。

彼女が皮肉を言うのも、これまた珍しいことだ。

「だがまあ、あそこはちょっと特殊な地域だから、予備知識を入れておくのは重要だな。
…なら、 ネットで調べられる程度のものでも当たっておこうか」 

「そうですね。通り一遍の情報しか集まりませんが、それならば日本語の情報も手に入るわ」 

「…」 

十条寺は黙って無表情のままだ。

彼にしてみれば、自分1人が間抜け扱いされているかのような印象を受けたんではないだろうか。

と、そこにリーが何冊かのパンフレットを持ってやってきた。

俺たちがついていたテーブルにそれを置く。

なにやら、漢字だらけの表紙が目に付いた。

「王大人から参考にしてくれと。チベットの資料ある。」 

「ちょっと待ってリー、これ私の店に置いてある国内向けの観光案内じゃない。
これじゃあ御手洗 さんと十条寺さんが読めやしないわよ。」 

「だいじょぶ、雰囲気を出すための表紙だけね。中はちゃんと日本語にしてあります。」

 そういって、彼はにっと笑った。

「どれどれ」 俺は一番上にのっていた1冊を手にとって開いた。

「…」 

確かに何ヶ所か怪しい日本語に訳されているようだが、急いで情報を得る分には全く問題ない。

「助かる。ありがとう、リーさん。」

 「はいな」

 頷いてリーは部屋から出た。

それを見送りながら、十条寺はなおも仏頂面のままだった。

「…なんだか妙に手回しが良すぎやしないか?まるで俺たちがチベットに行くことを最初から見越 していたかのように感じるんだが。

このパンフレットだって、ちゃんと印刷してあるが、こういうの は1日やそこらで用意できるものではなかろう。」 

「それこそ考えすぎじゃないか?確かにお前さんが言うように、こんなちゃんとしたパンフレット を作るのは何日もかかる。
だからこそ、もともと印刷してあったものをたまたま俺たちが必要とした から分けてくれたんだろう。
むしろ、当然だと思うが。」

 「…むう、言われてみれば確かにそうだが。」

 俺の反論に、十条寺は押し黙った。

が、間違っても納得した表情ではない。

…これは、仲間が王大人たちの不審な態度に疑問を持ち出 すのも、時間の問題だろう。

「それじゃ、早速読ませてもらおうぜ。
出発までどれほどの時間も残ってない。
車に揺られながら 読み物をするのはかなり神経を使うから
今のうちにできるだけ情報を頭に入れておくぞ。」

 そこに口を挟んできたのは、今までそこにいながら沈黙を通してきたユウカだ。

「そうだな。
敵の言い草も気になっていた。
チベットに入れば、例の建物までたどり着けるように してある…
奴め、どんな魔法を使うつもりだ?」 

「確かにな。催眠術でも施すのか、それだけの根回しができるほどの実力者なのか…
もし後者なら、 手がかりがこの中に埋もれているかもしれないからな。」 

俺はそう言ってパンフレットの束に手を置いた。

「そうね。じゃあ、当たってみよう。」

 ユウカのその返事を合図に、各自が思い思いの冊子に目を通し始めた。

ルリは、基本知識が頭に入っているのか、俺や十条寺に比べて非常にペースが早い。

俺が最初に手に取った冊子に載っていた内容は、ざっとこんな感じだった。

… チベット、そこは祈りに満たされた王国。

そこに根付いている信仰とは、観音菩薩が全てのチベット民族を救うという、菩薩信仰である。

それゆえ、観音菩薩の化身とされるダライ・ラマが、チベット民族の絶大な信仰を集めている。

なぜ、彼らは観音菩薩により救われるのか? 

その答えは、チベット古代史にある。

あるとき阿弥陀如来は、慈悲の分身である観自在菩薩に、南瞻部洲(すなわちインドの地)に降り、 無仏教地たるチベットに聖法を宣布せよと命ぜられた。

そこで観音菩薩はインドに降臨し、まずその宮殿として、インドの南端に突出したコモリン岬のあ る港湾を見渡せる、大きな巌上にポタラ(宮殿)を選定した。

それから観音菩薩はこの世界における無仏の地たる雪有邦土(今日のチベット)に開教するため、 
早速「北方の雪邦」に向かわれ、神通力をもって猿猴と羅刹女を通して人類を創造し、ついには仏法 弘通の機会を得たとされている。

また、チベットは平均標高4000メートルという土地柄であるため、高山病と低い気温に注意しなければならない。

普通の人がチベットに行くと、平地の半分ほどしか酸素が吸収できないし、真夏でも平均気温は16℃にも達しない。

… このパンフレットだと、こんなもんか。

「おい、御手洗…!」 

一休みしようとしたとき、十条寺がにじり寄ってきた。

何やら様子がおかしい。

「なんだ?」 

「…これを読んでみてくれ」

 彼がそう言って指差したのは、別のパンフレットの最後の方にあった年表だった。

そこにあったのは、1913年のチベット独立宣言から1950年の中国軍の侵攻に至るまでの経緯だっ た。

「御手洗、中国はチベットを武力統治しているのか!?」 傍にいるルリに気を使っているのか、声は小さいが語気は鋭い。

「う〜ん、今はそれほど締め付けが厳しいはずはないんだが。

今の中国は遮二無二になって世界の 列強の仲間入りを果たそうとしている。

そんな中で、軍事力で政治問題を解決しようとすれば、国際 世論が許すわけがないことは明らかだからな。」

 「なるほどな。しかし、ちらっと読んだだけだが、中国は何百年も前から、幾度かチベットに侵攻 している。
もしやとは思うが、その確執が今回の事件の発端になっているとは考えられんか?」

 …ほう、そういう見方もあったか。

一見短絡的かもしれないが、あの黒幕が中国人だけを敵と見なしている事実や、
ここにきて王大人 の態度が不審なものを含んできたことを考えれば、そういう推測も出てくるかもしれない。

だが、ちょっと待て。

「…十条寺くん、その言い方だと中国側に非があるように聞こえるが、年表をよく読んでみろ。
この年表によると、ダライラマ5世のあたりからチベットの政治は宗教国家じみた性格を持ち始めている、とある。
こういう政治体制は、周りの国にとっては結構迷惑なものだったりするんだ。
神のお告げだ、というだけで突然戦争を仕掛けられたりしてもおかしくないからな。
それを避けるための政策 だとしたら、中国側が一方的に非難を受けるいわれはない。」

 「おいおい、いくらなんでもそれは極端じゃないのか?」 

十条寺は反論したが、宗教が政治に絡むと、恐ろしい結果を生むという事例はしばしば歴史上でも 見られる。

神の教えに反するという理由だけで糾弾され、ひどい場合には神に背いたという事実無根の言いがかりで大量虐殺が繰り返されたこともあるのだ。

十字軍や魔女裁判がその代表だ。

また、仮に死んだとしても神が救ってくれると信じて、女子供や病人に至るまでもが平気で命を捨 てて戦い、結果的に皆殺しにあったという記録もある。

日本の島原の乱がそれにあたるだろう。

「他にも、イスラム教徒などは今でも少数派、多数派に分裂していて内紛が絶えないし、神の名を借りてテロ活動を繰り返している。

…今の時代になってくると宗教だけが原因じゃなくなってくるん だが、
それにしたって神というものが絡まなければ、彼らだって自爆テロなどといった、
簡単に命を 捨てるような行動に出るはずがない。宗教ってのは、まかり間違えると恐ろしいものなんだぜ。」 

「う〜ん、一理あるな。言われてみれば、確かに…」

 「皮肉なものだな」 

そう口を挟んできたのはユウカだ。

「本来、宗教というものは人間が幸せに生き、そして充実した生涯を送るために古代の人類が作り 出した概念のはずだ。
それが、いまや戦争のための口実になったり、ひどいときは一部の人間のわが ままを正当化するための方便にされたりしているありさまだ。」 

「それはそうだが…」 

「私はかつては人間だったのだ。」 

そう言って無表情のまま続ける彼女は、十条寺の口出しを許さなかった。

その口調には完全に抑揚がない。

それが却って彼女の内側に抱えたものの凄まじさを感じさせた。

「そして、悪魔と合体させられたがゆえに、人間と悪魔の両方の事情がわかるのだ。
お前たちが… まあかつての私も人間ではあったがな…神と呼んで崇めている存在も、
人間とは異質なもので強大な 力を持つという内容でひとまとめにするならば、ある意味悪魔となるのだ。」 

「…!」 

息を呑む気配にふとテーブルの右手を見ると、ルリが別のパンフレット立てて読みふけっているよ うに見えた。

しかし、その座っている位置が心持ち俺たちに近づいていることと、
ページをめくる手がまったく 動いてないということは、ユウカの話に聞き入っているに違いない。

「その影響力があまりにも強いものだから、人間の世界に直接干渉することは極めて稀だし、
望ん だところで人間が接触することはまず無理だ。
しかし、悪魔としての体を持てば、望めば彼らにも接触できる。」 

「そ、それは…神と呼ばれている存在と直接話ができるとかそういうレベルなのか!?」 

思わず興奮して上ずった声になってしまった俺の問いに、ユウカは悲しそうに笑った。

「ずいぶん簡単に言ってくれるな。
己の精神を引きちぎるほどの集中力を要求されるのだ、そうそ うできるものではない。
…それに、私が言いたいのはそんなことではない」 「う…話を逸らしてしまったようだな、すまん。」 

「気にするな。…つまりは、神や悪魔という存在は、昔話や宗教という形で人間に介在してきた。
だが、在り方はその存在を信じる者の心に依存しているのだ。
だから、神話や教典を人間の方で歪め てしまえば、神としての性格や悪魔としての存在意義なども多分に影響を受けるのだ。
私は、それを 肌で実感できる状況にあるというわけなのだよ。」

 「では、…もしも、十条寺の言ったことが事実だとしたら…」

 「ああ、堕落したホトケサマやボサツサマが敵に廻る可能性は充分にあるということだ。」

 そう言って、ユウカはふふっと自嘲気味に笑った。

そのとき、唐突にルリが口を開いた。

「そんな不毛な戦い、あたしは絶対にしたくないわ。
いいえ、そんな戦いにならないためにチベッ トに向かうのよ。
…少なくともあいつは、敵と味方を選んでいる。
理性がある証拠よ。
ゴージャス男 みたいに、誰も彼も自分にひれ伏さないと気が済まないという雰囲気は感じられなかった。
話し合う 余地は、必ずあるはずよ!」

 「…」

 誰も、彼女の叫びに応えようとはしなかった。

ユウカの言ったことに対して、場違いな意見だったこともある。

しかし、彼女の立場を考えると、 そんなことで揶揄することは許されない。

中国人でありながら、彼女は中国が嫌いであったため、今まで日本人のような名前まで名乗って、 俺たちといる間、ほとんど日本語で通してきた。

だが、ここにきてあの黒幕は中国人を敵視していることが明らかになった。

俺たちの中に中国人がいるとわかれば、当然あの敵は容赦しなくなるだろう。

仮に、彼女が家族たちを捨ててまで日本人として振舞うというスタンスを取ったとしても、彼女の 父親や仲間、友人たちは標的にされることに変わりはない。

自分の立場を取るか、それまでの自分全てを捨てて仲間を取るか…

彼女は今、そのジレンマに相当 苛まれているはずだ。

それを軽はずみに茶化すことなど、できるはずがない。

「ルリ…あまり、気負いこむな。

今からそんな勢いでは、息切れしてしまうぞ」 俺はつとめて冷静に、彼女を宥めた。

「あ…はい」 ルリも、感情的になり過ぎたと思ったのだろう、俯いて返した声は、相当小さかった。

「それに、他の可能性を当たらずに宗教面での関係者が黒幕と決め付けるわけにもいかない。

…ま あ、現地に行かないことには当たりようもないが、それなら尚更だ。

時間も時間だし、そろそろ出発 の準備をしよう」 

「そうだな」

 ユウカと十条寺も頷いて、荷物をまとめだした。

「…」

 ルリは無言のまま、他の2人に倣って荷物をまとめる。

今回の任務は、彼女にとってはつらいものになるかもしれない。

おそらく、彼女は自分が中国人であることをかなり強く否定しているはずだが、
そうすること自体が、自分が中国人であることを心の底で認めている証拠に他ならない。

…あの黒幕が中国人をあれほど憎んでいるには、正当であるにしろ偏見であるにしろ、それなりの理由があるとみて間違いない。

それを正面切って突きつけられたとき、果たして彼女は…。

「…いいや、今は考えるな」 

リーダーである俺がくよくよしていては、全員の士気、ひいては任務の遂行にまで支障をきたして しまう。
そのときはそのときだ。俺は、何があろうとどっしり構えてなくては。

「ん、何をだ?」 

「!…い、いや、なんでもない」

 ほれ、早速、十条寺に悟られているではないか。

ついつい、迷いを吹っ切るための決意を口にしてし まっていた。

そこに、ユウカがすっと近寄ってきた。

耳の産毛に唇が触れそうなほど密着してくる。

「…!」 彼女の吐息や肌のぬくもりまで感じそうで、思わず硬直してしまった。

しかし、その口から出た言 葉は、意外ではあったが頼もしかった。

「サキョウ、お前が動揺してはだめだ。

こんなとき、リーダーというのは最も頼りになる存在でな くてはならないのだぞ。」

 「あ、ああ…」 …ど、どうしたことだろうか? 

彼女のその言葉を聞いただけで、一気に自身が戻ってくるような気がしたのだ。

まるで、疲れ切っ た体に、急に気力がみなぎってくるような…。

一瞬、彼女が仲間を鼓舞する魔法でも使ったのかと思ったが、側にルリもいるのだ。

いくら気持ちが落ち込んでいるからといって、目と鼻の先で魔法を使われたら、その余波に気がつ かないわけがない。

…では、どうしてだ? 必死に頭を回転させている俺の様子を不審に思ったのか、ユウカが俺の顔を覗き込んできた。

「サキョウ…?どうした?」 かああああっ! なぜだなぜだ、なんでいっぺんに顔に血が昇ってくるんだっ!? 」

「な、なんでもない。早く準備をしないと!」 

明らかに不自然なほどの早口でそれだけまくしたてると、俺は手荷物をかき集めて逃げるように部 屋を飛び出した。

そのまま、ドアに背中を預けて大きく深呼吸を繰り返して気を落ち着かせる。

「…すーっ、はーっ、…すーっ、はーっ、…」 

顔の火照りは収まったが、心臓がどきどきと凄い勢いで動いているのはなかなか収まらない。

…いったい、本当にどうしたというんだろうか? 

今まで、彼女が間近にいたってこんなことはなかったのに。

ちょっと顔が近寄っただけで、ここま で動揺するなんて、どうかしている。

こういう場合、安直な小説とかだと恋とか愛情とかいうパターンが多いが、そういう感情に類する ものではありえない。

俺が相手に戦ってきたのは、人間ではない。

悪魔なのだ。

そういう感情につけ入ってくる女悪魔の手練手管は、人間の比ではない。

それに抵抗する訓練も充分に積んできたし、これまでの戦いで1度でもそういう罠に陥っていよう ものなら、そもそもこの場にいられるはずがない。

「…とはいえ、何だかなあ…」 

何か、彼女に対する好意的な感情が自分の中に生まれ始めたような気がしないわけではない。

だが、 彼女は俺にリーダーとしての心構えをアドバイスしてくれただけなのだ。

もしかすると俺自身が、任務の行方を見失いかけていて、不安に感じているのではなかろうか?

ユ ウカはそれさえも見抜いて、俺にあんなことを言ったのでは…? だとしたら、彼女には後で礼を言った上で謝らないと。

さっきの態度は、心配してくれた相手に対するものじゃなかったしな…。

と、急に背中がどやしつけられた。

誰かがドア越しに、俺の背中を叩いているのだ。

「御手洗!御手洗!?いつまでドアを塞いでるんだ、いい加減に開けろっ!!」

 …十条寺の絶叫。

しまった、慌てふためいたところを見られないように、落ち着くまでドアを開けられないように押 さえていたままだった。

もう出発の時間も迫っている。

彼の怒りはしごく当然だよな。

慌ててドアの前から離れ、こっちから開けてやる。

「悪い悪い、ちょっと脚の痛みがひどくなって、な。

脚を押さえたままうずくまってしまって」 その言葉に、ルリが反応した。

「だ、大丈夫なんですか!?」 …しもた。

治療した本人の目の前でそんなことを言ったら、焦らせてしまうに決まっている。

ちく しょ、安直にお茶を濁すことも許されんのか、こういう雰囲気では。

「ちょっと根を詰めすぎたのもあるのかもしれん。

移動の飛行機の中では、ゆっくりさせてもらう とするよ。」

 「そう…ですか。確かにみなさん、父の薬のおかげで今のところ疲れは出ていないようですが、かなりのハードワークのはずですからね。
少し余裕をもって行動した方がいいかもしれません。」

 そういうルリの目は、俺だけではなく十条寺、果てはユウカにまで向けられていた。

「かもしれんな。御手洗、今度は緊急性は少ないはずだろう。チベットに行くまでに1日、ついて からもう1日、休息を取りつつ調査したらどうだ?」

「…」

 難しいところだ。

確かに皆の疲れ具合を考えれば、できるだけ休養を挟みながら調査をしたいところだ。

何より、ゴージャス男を倒せば終わりだったはずの任務が、チベットまで行かなければならないことになるとは誰もが想像すらしていなかったはずだ。

それを考えると、無理は禁物のような気もする。

だが一方で、ことは中国全体を傾けかねないほどの深刻さも持ち併せているのだ。

ゴージャス男は、充分な力を蓄えたからと言って、いきなり国家の首脳と会ったこともある。

その 場でいきなり悪魔を召喚し、彼らを襲わせていたとしたら…。

実際にはこんな最悪の事態にはならなかったし、ゴージャス男の独断だった可能性の方が高い。

し かし、あの黒幕の言動を見ていると、あまりのんびりとしていられない気もするのだ。

中国という国をひっくり返すためだけに、ゴージャス男にこの世の王となれ、とそそのかしたのだ。

同じ調子で手段を選ばずに行動をし始めたら、俺たちの手におえない場合もありうる。

あくまでも仮定の話だが、次はやり方を変えて政治的なからめ手で中国を崩壊させようとしたら、俺たちではどうしようもない。

むろん、今の国際情勢がそのまま保たれるならそんなことはできるわけがない。

しかし、俺たちの目の前でしてみせたように、奴が好きな場所に姿を現せるならば、
主要国家のト ップにそう仕向けるよう催眠術をかけてまわることは不可能ではない。

国連の幹部、列強のトップ、周辺国家の指導者…国を動かす存在といえど、結局は人間だ。

いつな んどきでも隙を見せないというわけにはいかない。

それに、これなら人数も限られる。

成功させようとしたら時間がかかる上に、効率としては非常に悪い方法だが、
充分根回しをした上 でこれを実行されたら、おそらく阻止できまい。

また、強引に武力に訴えられても同じことだ。

中国が保持している兵器を世界の各主要国に向けて発射するようにしてしまえば、
当然報復として それに数倍する戦力が各国から送り込まれる。

そうなれば、後は見ているだけで中国は合法的に壊滅の一途を辿ることだろう。

奴がしびれを切らせて行動に出るとすれば、当然もう俺たちは用済みと判断するはずだ。

そうなれ ば、俺たちの力が及ばないそういう手を使うのはほぼ確実だろう。

むう…。

コンディションが悪いまま黒幕と対峙するのもまずいし、かといって体調の回復を待っている余裕 があるかどうか疑わしいし。

…いや、待て。

奴はチベット全域に支配力を発揮しているような口ぶりだった。

ならば、今日中にチベットに入る ことができれば、俺たちがあいつに会うつもりがあるというアピールにはなる。

この事実が、奴と会うまでの時間稼ぎにはならないだろうか。

…よし、その手でいこう。

今はこれ以上の選択肢はない。

「そうだな。

とにかくチベットに入域するのだけは急ぐぞ。

休息を取るのはその後でもできるはず だ。

あの黒幕をじらすのは避けたいが、かといってこちらのコンディションがいいとも言えない現状 では、そうするのが一番無難だ」 

「わかった。」

 十条寺の了承の言葉とともに、皆はめいめいの荷物を持って王大人の元に向かった。

もちろん、もうすぐチベットへ出発するのだ。

これからは、あれこれと迷うことは許されない。

細 心の注意をもって、黒幕の真意を突き止め、場合によっては倒すのだ。

…そう、ここまでで脱落してしまった、東鳳風破、アイリス、ミユキのためにも。

33章 疑念

さすがに、骨折まがいの重傷をおしての飛行機はかなり無理があった。

「ぐっ…ううう…!」 行きがけにルリが改めて傷を処方してくれたというのに、ちょっとの揺れでも右足がうずいてしか たがない。

彼女が言うには、揺れというより高度が変化することによる気圧の変化によって傷口が痛むからだ という。

俺も覚悟してはいたのだが、ここまできついとちょっと閉口する。

「御手洗、同じ男として恥ずかしいぞ。

そんなにうめくことないかろうが」 や、やかましい。

こっちは、これでも、必死で激痛を堪えてるんだぞ。

「…ぐぅ」 反論しようとしても、今の俺にはうめきしか出せない。

これでも、当初の計画よりはマシなのだ。

最初は先を急ぐあまり、王大人飯店のある北京から成都までの行程も飛行機で行けばいいと考えて いたのだ。

それを、重傷者がそんな無理をしてどうするんですか、と王大人とルリに2人がかりで止められて、 
俺はしぶしぶその案を思いとどまり、成都までは自動車で行くことにしたのだ。

その移動時間たるや、本当に寝るに寝られないほど長く感じたのだが、
わずかな時間のロスを惜し んで飛行機を乗り継ぐつもりでいたことを考えると、王大人たちには感謝せざるを得ない。

そんなことをしていたら、俺は確実に飛行機の中で気を失っている。

そこまで思わせるほど、右足は痛むのだ。

実際、戦闘中にこれだけ痛みがひどくては足手まといに なってしまう、とさえ思ってしまう。

今は、定員15名という、ここで使われている中では中型クラスのエアバスに乗っている。

俺たちだ けで乗るには、少々贅沢と思われるような大きさだ。

それというのも、オベリスクが常人をはるかに凌ぐ体格と楽に大人3人分以上の体重を持つことと、 
俺が重傷を負っているため居住空間に余裕を持たせるためだ。

まあ、俺もこの機体を手配してくれた王大人のご厚意に甘えて、
傷が痛み出したらシートの上に足 を投げ出したり、のた打ち回ったりしているのだが。

俺の無様な姿にいい加減呆れたのか、ルリがやや憮然とした面持ちで席を立つと操縦室に入ってい った。

パイロットも王大人の配下だから、彼女は何の気兼ねもない。

ユウカと十条寺も、俺のことをそろそろ鬱陶しそうに見始めた。

オベリスクだけが(当然といえば 当然だが)微動だにせず座っている。

ルリは、副操縦士となにやら中国語で話し合っていたかと思うと、俺の隣までやってきた。

「御手洗さん、あと30分はこの高度を保たないといけないそうなので、…まだ先は長いようですが、 大丈夫ですか?
耐えられないようでしたら、麻酔を処方しますけど」 

…あらま。

俺の痛がりように呆れて気を紛らわせに出て行ったのかと思ったら、そんな心配をしてくれていた とは。

「いや、そ…、そこまでしなくていい。
いざというとき、感覚が麻痺していては命取りになる。
休 養中ならともかく、任務についている間はそういうわけにはいかないんだ。」 

彼女の気遣いは嬉しかったが、これから何が起きるかわからないというときにそんなマネはしてられない。

が、ルリは予想以上に感心したような顔になった。

「…それは思ってもみなかったわ。
御手洗さん、こと仕事に関しては厳しいんですね。
それほどう めいているんだから、相当痛いはずなんですけど。」

 「サキョウの判断が正しい。一旦麻酔をかければ、3時間や4時間は麻痺したままになるのだろう。
つまり、飛行機を降りた後でも麻痺が残ると言うことになる。
感覚が鈍ったままで襲われたら、それ を守るため私たちまで行動が制約されることになる。
…あの黒幕の様子ではそれはないと思うが、未 知の土地に踏み込む以上、安全とわかるまでは我慢したほうがいい。」

 そう言って俺に賛同したのは、ユウカだ。

彼女はそこまで一気に喋った後、気の毒そうに俺の顔を 覗き込んだ。

「…回復魔法が効くならそんな思いをさせなくて済むのだが、な」 そう。

飛行機に乗る直前になって、十条寺がふと思いついたらしく、ルリとユウカに、
俺の右足に回復魔 法をかけて、治りを早めることはできないのか聞いたのだ。

しかし、彼女たちの答えは絶望的だった。

普通に魔法をかけたところで、こういう骨折や腱に関わる傷は1日か2日程度しか早まらないのだ そうだ。

また、無理に早く治そうとして必要以上に魔法をかけ続けると、肉体の回復能力そのものに干渉する恐れがあり、
最悪の場合代謝機能を狂わせてしまい、かえって怪我の治りが遅くなってしまうこと があるらしい。

結局、昔も今も、はたまた科学であろうが超自然現象であろうが、骨折は時間が治すものというこ となのだろう。

「そうなると、ますますチベットでの任務は速やかに解決しないとならんな。御手洗の傷の治りに まで影響が出るということになるからな。」

 そう呟いて、十条寺が腕組みした。

「…」 それっきり、誰も口を開かなくなった。

皆、敵地に乗り込む緊張に気を張り詰めているのだろう。

こんなとき、ミユキやアイリスでもいれば、じゃれ合いでも始めて周りの空気を和ませようとする ところだろうが、今はそういうことをする者はいない。

あいつら、意外とムードメーカーみたいなところがあったんだな。

脱落した彼女たちや東鳳風破のためにも、何としても真相を突き止めなくては。

… と、誰かが俺の両肩を激しく揺さぶった。

続いて、十条寺の怒声。

「おい!御手洗!いい加減に起きろぉっ!!」 

はっ!? 慌てて上体を起こした。

目の前には、額に青筋を浮かべた十条寺が眉を吊り上げている。

「な、な?どうしたんだ!?」 「どうしたって…お前なあ…」 さっきの怒声から一転、呆れた声を出す十条寺。

その横から、ユウカが顔を覗かせた。

「やれやれ…この分では、飛行機が着陸したのにも気付いてないようだな。
…サキョウ、もうチベ ットに到着して、かれこれ10分は経っているんだぞ」 

なにぃ!! 仲間達の背後の、飛行機の窓をちらっと盗み見る。

確かにその景色は、既に雲の合間のものではな かった。

と、いうことは…。

「ええっ!?…じゃあ、俺、着陸のショックでもごーすか寝ていたのか?」 「そうですよ。

みんな、あたしがこっそり御手洗さんに麻酔を打ったんだろうって、さんざんな言いようだったんですよ。」

 ルリが、俺の背後から恨みがましそうな声で囁いた。

お、おいおい。

これでは、リーダーとしての俺の立場というものが…。

「御手洗。今何か不遜なことを考えてなかったか?リーダーの立場がなくなってしまうとか何とか、 
そんなことを考えているようなら怒るぞ。」

 俺の顔色を読んだのか、十条寺が凄みのある声を出した。

それにしてもこいつ、鋭すぎる。

しかし、その後にルリが言ったことに、俺は柄にもなく胸を熱くさせてしまった。

「そうですよ。
あなたが一番苦しい目に遭っているのはみんな知ってますよ。
上司と交渉し、最前 線で敵と戦って、その上事件の裏にある真相の糸を手繰り寄せようとしている。
みんなより疲れが溜 まっているのはわかってるんです。
あなたがいればこそ、みんな目の前のことに専念していられるん ですから。
だから私たち、ぎりぎりまで休ませてあげようと決めてたんですよ。
この上、さらにリー ダー面して余計な疲れをためるようなら、かえって迷惑です。」

 正直言って、みんながここまで俺のことを気遣ってくれているとは。

「…そっか、いろいろ助かったよ」 とりあえずそれだけ言って、俺はシートを降りた。
それ以上言ったら、涙がこぼれるかも知れなかったからだ。
こんなことでうれし泣きなんていうの は、あまりにも安っぽいもんな。
早いところ降りよう。」

「あ、おい!」 

十条寺が慌てて呼び止めようとしたようだが、俺は既に飛行機のハッチを開いてしまっていた。

ごおっ! それと同時に、全身を凍てついた風が包み込む。

乾燥した空気が砂塵とともに、容赦なく肌を刺し た。

そして、急に体中が内側から膨らんでいくような錯覚に捕らわれる。

「ううっ…?」 耳の奥キーンと痛み、息苦しさのあまり胸をかきむしりそうになって、初めてこれらがすべて高山 症による症状なんだと理解した。

「はあっ、はあっ…」 後に続いて降りてきたユウカとルリも、額を片手で押さえて喘いでいる。

俺と同じで、彼女たちも 高山症にやられているのだ。

最後に降りてきた、造魔であるオベリスクはともかく、十条寺が平然としているのは少し意外だっ た。

「みんな大丈夫か。気圧が低いから、慣れないうちは息をするのも大変だぞ。」

 そういうと、彼は俺たちの手荷物を次々に取り上げてオベリスクに手渡した。

そして、自分の手荷 物を抱えたままひょいと跳んで、俺たちの頭上を飛び越して着地する。

「…あいつ、なんであんなに普通に振舞えるんだ?この息苦しさが気にならんのか?」 

つい、そんなことを口走ってしまった。

すかさず、背後からユウカが答える。

「ひょっとしたら、修行の一環としてこういう気圧の低い場所にいたことがあるのかもしれないな。」

 「…そうで、すね。こういう場所で、身体を慣らして、おけば、普通の気圧の、場所では、
びっく りするくらい、呼吸が楽に、なるって、聞いたことが…」 

それ以上、彼女の言葉は続かなかった。

「ルリ!?」 慌てて振り返る。

見れば、彼女は真っ青な顔色になって、オベリスクにもたれかかっているではないか。

オベリスクはオベリスクで、右腕のブレードを俺たちの手荷物に通したまま、
左腕のブレードを器 用にルリの背中にあてがって彼女を支えている。

思わず、自分も高山症で息苦しいのを忘れて彼女に駆け寄った。

「おい、しっかりしろ!…あれ」 

気絶したのかと思っていたが、彼女は俺の声に反応して目を開いた。

意識があるなら、一刻を争う ほど深刻ではないだろう。

「…」

とはいえ、喋ることはできないようだ。

唇がかすかに動いたものの、頷くのがやっとという印象だ った。

「平地の気圧に保たれていた飛行機の中から、いきなり気圧の低いところに出たもんだから、身体が対応できなかったんだろう。

御手洗、ユウカ、ちょっとどいてくれ。」

 そう言って十条寺は、左右に道を開けた俺たちの間を通って、オベリスクの前まで来た。

「とりあえず、彼女は俺がおぶっていく。
お前たちも、早く宿を探して休養を取った方がいいな。
…オベリスク、彼女をこっちに渡してくれ。」 

オベリスクはそれに頷くと、ブレード1本で器用にルリを十条寺に預けた。

彼女がかすかに微笑ん だのは、感謝の気持ちの現れだろう。

この分なら、彼女は十条寺に任せても大丈夫だろうな。

この後の段取りを素早く整理して、俺はユウカに向き直った。

「よし、俺たちは宿を探そう。
そこで医者も呼んでもらって、ルリをちゃんと診てもらって…」 

と、最後まで聞こうともせずにユウカは露骨にげんなりした顔になった。

「厄介なことを、さらっと流すな。ここは日本じゃないんだ。
ルリが動けなくなった今、お前はど うやって宿を探すつもりだ?
一応中国だといっても、ここは一種の閉鎖地区だ。
唯一中国語が話せる ルリが満足に動けたとしても一苦労するだろうに、
日本語などまともに通じるような状態じゃないと いうことは考えなかったのか?」 

…おいおい。

「お前…あのときの話を聞いてなかったのか?あの黒幕、チベットに入域したら日本語でも通用するようにしておくって言っていただろう。
あの言葉がどこまで信用できるのかは疑問だが、あの場で 嘘をついたところで何の意味もないし、試す価値はある。
同時に、ここでの奴の影響力がどれほどの ものかを知ることもできるだろうし」 「な、そういえば…!」 

ユウカは、やっと合点がいった表情になった。

「わかった、では宿を探すのは私がやっておこう。お前たちは、…さし当たって上着を着ておいた方がいい。」 

「…なんだそれ?話が見えんが」 

怪訝そうな顔をしてみせると、彼女は俺の唇に指を当てた。

「真っ青になっているぞ、ここ。緊張していてまだ感じてないのだろうが、
気温の低さと乾燥した 空気でかなり体温が下がっているはずだ。風邪でもひいたら厄介だからな。」 

…言われてみれば確かにその通りだ。

念のためにと、全員が防寒着を持ってきていたが、飛行機の 中は空調を効かせていたので必要なかったのだ。

現に、十条寺を除く全員が手に持つなり、腕に抱えているなり、着ていこうとした形跡がある。

だが、着いた早々俺が不用意にハッチを開けたものだから、誰も防寒着をつけるヒマもなくチベッ トの低温かつ乾燥した外気に晒されることになった。

それに加えて、初めての者にはきついこの気圧の低さ。

ルリほど一気に体調を崩すことはないとし ても、このままでは遅かれ早かれ彼女の二の舞は明らかだ。

俺が頷いて上着の袖に手を通したのを確認すると、彼女は空港の作業員が遠くにいるのを見つけ、 たっと駆け出した。

「おーい、そこまでしなくてもロビーのカウンターで探してもらえば…」 

俺のその叫びは、残念ながら聞こえなかったようだ。

日本で言えば、仮にも地方都市に当たる位置 付けの街だし、そのくらいの情報網はあるはずなのに。

…あいつは、まともにガイドブックを読んでなかったのか?

 「困りますね、バスが来るのを待たずにあちこちうろつかれては」

 「どわわわああっ!?」

 だしぬけに耳元で聞こえた愚痴に、俺は飛び上がった。

酸欠状態で大声を出したものだから、途端 に頭がくらっとする。

足元がふらついた俺に、そいつは腕を差し伸べてきた。

が、背筋に薄ら寒いものを感じていた俺は、 その手を反射的に払いのけていた。

「落ち着いて。

深呼吸の要領で息をするよう心がければ、慣れるのも早いですよ」 

「わ、わかったから…」

俺はそれ以上そいつに喋らせまいと、右手を上げてそいつを制した。

そう、俺が飛び上がるほど驚いたのは、突然耳元で話し掛けられたからだけではない。

その男の声に、抑揚というものがまったくなかったからだ。

ゾンビやカラクリ人形が喋るような口 調と言った方がわかりやすいか。

こっそりと耳元まで近寄ってこられて、そんな声でいきなり話し掛けられたものだから、相手を驚 かそうとして大声で叫ぶより、よほどたちが悪い。

一刻も早くその場を飛び退きたいのを我慢して深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着けてから、改め て俺は話し掛けてきた男を見た。

男は四十代前半だろうか。

空港の作業員の制服を着ている。

それに、今まで気がつかなかったが、 乗客送迎用のバスが近くで停まっていた。

ということは、この男は飛行機の乗客をターミナルまで送 るバスの運転手なのだろう。

一昔前なら、日本の空港でもよく見られたシステムだ。

飛行機自体は滑走路の空いている場所に着 陸させ、乗客をバスで出迎えて空港の建物まで乗せていくのだ。

現在の空港は、飛行機を通路の入り口まで移動させて乗客を直接空港の建物内に移す。

その方が乗 客に余計な乗り降りをさせなくて済む分不快感を与えないからなのだが、それは滑走路の管理がきめ 細かにできていなければ実現できない。

さもなくば、入り口に複数の飛行機が殺到して衝突したり、行き先の違う飛行機に乗客を誘導した りしてとんでもない事態を引き起こすからだ。

ここはそこまでの施設ができていない、ということなのだろう。

いや待て、北京空港では、ちゃんと飛行機を直接搭乗口に着けていた。

中国にそれだけの技術力が ないというわけではないのだ。

だとすれば、ここはこれからそういう施設を充実させていくのだろうか。

ともかく、バスの運転手が勝手に走り回っている俺たちを注意しにきたというだけなら、
この場で 謝れば済む話なのだが、彼が日本語で話し掛けてきたというのが俺に緊張を与えていた。

彼の瞳には、濁った光しか映っていない。

その口元には、表情というものがまったくない。

俺に数秒間もの間見つめられているというのに、まったくまばたきをしない。

呼吸はしているようだから、よもや死体というわけではないが…。

「あんた、俺たちを迎えにきたのか?」 「はい、あのバスに乗ってください。

空港まで乗せていきますので」 俺との受け答えにも、さっきと同じように声にまるで感情がこもってない。

おまけに、わざとぶっ きらぼうな言い方をした俺の問いかけにも、表情を見せることがなかった。

…決まりだな。

こいつ、例の黒幕に操られている。

否、こいつ1人で済むはずがない。

おそらくは、この空港の人 間全員が同じことになっているはずだ。

でなければ、俺たちと接触する人間に限ってマインドコントロールをかけているということになる が、今の事実からすれば、そんなことはありえない。

普通に考えれば、ここで俺たちが最初に話す人間は、ロビーの係員か、空港内の売店の店員がいい とこだろう。

まさかそれがバスの運転手だなんてことは、まず予想できまい。

図らずも俺たちはあの黒幕の予想を上回る行動を取ろうとしたことになったのだが、それでも奴の 手の内から逃れることはできなかったのだから。

それにだ。

あの黒幕は、俺たちがチベットに入りさえすれば、自分の待ち構えている寺院にたどり着くまで、 あらゆる便宜を図ってやるとも言っていた。

…要するにマインドコントロールで自分の待つ寺院はこっちだぞ、と言わせて回るようにしている んだろうが、口で言うほど簡単なことではない。

奴にしてみれば、この空港を押さえておけば、とりあえずは俺たちがいつチベットに入ったのかは わかるだろう。

だが、その後は? 右も左もわからない、言葉はおろか気候風土にすら馴染むのに苦労するような連中を
自分の待つ寺 院まで誘導するには、一体どれほどの広範囲にわたって術をかけておかなくてはならないのだろうか。

そして、俺の推測を裏付けるかのように、ユウカが顔色を変えて戻ってきた。

「サキョウ、この空港の連中、お前が言ったように全員あの影の影響を受けてるようだ!
どいつも こいつもみんな日本語で話し掛けてくるぞ!」 

「…やはり」 
ある意味、便利と言えば便利なのだが、観光客の要望に応じるために相手の言葉を覚えて自主的に話すのとはまるで違うから、
薄気味悪いことこの上ない。

これは、十条寺とルリにも早いとこ話しておいた方がいい。

あ、いや、今ルリは気を失っているか ら、先に十条寺だけでも。

そう判断して、すぐ後ろにいるはずの彼に目を向けた。

するとどうだ。

十条寺は十条寺で、目を見開いて口をきりっと結んだまま、戦闘状態のような緊張感を漂わせて周 囲を伺っているではないか。

「十条寺君、どうした!?」 こいつがこんな状態で長時間押し黙っているなんて、絶対に只事ではない。

自然とこちらも口調が鋭くなった。

「…これだけの規模の空港なら、外にいたってもっと周りの喧騒や気配を強く感じるものだ。

だが、 ここにはそれがずいぶん弱いものにしか感じられん。

作業員も見えるというのになぜだ、まるで観光 客以外の人間はいないかのような、このひっそりとした気配は…?」 

他の、観光客!? 

そうだ、今ここにいる外国人が俺たちだけのはずがない! 

ここは世界的な観光地にもなっているのだ。

確率的に考えてみても、日本人以外の観光客がいない なんてバカな話があるはずがない。

なのに作業員も案内人も全部が全部日本語しか喋らなくなっていたら、どうなるのだ。

「みんな!急いで旅行案内所に行くぞ!
とにかく他の観光客がここのスタッフと話をしているとこ ろを押さえて、この状況がどういうことか問いただすんだ!
日本人以外の相手にまで日本語で話すほ ど融通の利かない状態なのか、それとも相手に合わせて、
せめて英語か中国語で話すくらいの応用は 利かせられるのか、
それがはっきりするだけでもこれからの対策はずいぶん違ってくる!!」

 一気にそれだけ叫ぶと、俺は例の男が運転するバスに飛び乗った。

すぐ後にオベリスクが続く。

俺 の命令には盲目的に従うだけに、こういうときの行動は実に素早い。

一瞬遅れて、俺が何をしようと考えているのか気がついたユウカが、その後に十条寺が続いた。

ル リは、もちろんまだオベリスクが抱えたままだ。

バスに俺たちが乗り込むと同時に、男は発車させた。

そのまままっすぐターミナルに向かう。

他に 乗客を乗せるつもりなどまったくないようだ。

バスに揺られている間、戸惑いと気味の悪さのため誰も口を開こうとしなかった。

ターミナルに着 いて、バスから降りるまでの時間が妙に長く感じる。

「う、うう…ん」 もう少しで到着というところで、ルリが目を覚ました。

俺は運転手に聞かれているのは承知の上で、彼に話し掛けられてから今までの顛末を手短に説明し た。

「…というわけだ。ターミナルに着いたら、まずは空港の職員が日本人以外の観光客に話し掛けら れているのを探して、
彼らがどう反応するかを確認するつもりだ」 

「わかったわ。でも、…でも、その結果によっては、私たちは途方もない相手と対峙することにな るかもしれないってことになるのよね」 

「…覚悟の上だ」 

「そうね」 

こんな話し方をしていては、ちょっと勘のいい者なら物騒な話をしていると察しがつくのだろうが、 
運転手は前を凝視したまま、淡々と運転していく。

だが、ターミナルに到着して降り際に運転手が言った言葉は、全員を驚愕させるに充分だった。

「お気をつけて。あの方の寺院は、空港を出て右です。迷ったら、誰に聞いても教えてくれますか ら、ご心配ならさずに!!」

 こ、こいつは…! 

始めから俺たちのことを、あの黒幕の元まで案内するつもりだったのだ。

冷静に考えれば、これから出会う人が全て同じようなことを言うであろうと予想してしかるべきな のだが、
いざ面と向かって言われると、結構ショックである。

「…」 皆、程度の違いはあれど同じ思いだったのだろう。

誰も運転手に応えずにバスを降りた。

「御手洗さん、わたしたち…これから会う人みんなにああ言われるのかしら。」 

ルリがぼそっと呟いたのは、愚痴でも何でもない。

純然たる事実である。

それだけに、そうだと言い切ってしまっては、全員の気力を根こそぎにしてしまう恐れがあった。

「…今は、身体を休めることを最優先に考えよう。

相手が俺たちをまだ敵と見なしていないなら、 泊まるところや食事など、生きていく上で最低限のことを妨げてまで案内させようとはしないはずだ」 

「そうだな。繰り返すことになるが、まずはこの気圧の低さに体を慣らすことが大切だ」 

そう言ったのは十条寺だ。

この気圧に慣れているはずの彼でさえ、疲れた顔をしている。

精神的な 疲労も、相当あるのだろう。

彼の言う通りだな。

そろそろ日も暮れようとしているし、これからさらに寒くなるはずだ。

身体的なものはともかく、長旅と空港に着いてからの衝撃的な出来事が、全員を疲労の極致に追い やっていた。

勝手のわからない土地でこれ以上、うろつくべきじゃない。

「…宿を探そう。もう何をするのも明日からだ。今日は全員、時間の許す限り体を休めておくんだ」 

仲間たちを振り返ってそう指示する自分の声にも、もう力がこもってない。

「…ここの人たちの洗脳の度合いを調べるのは、どうするの?」

 そう聞いてきたユウカの声も同様だった。

悪魔である彼女が疲れを見せるのは、変だといえば変な のだが、今はそれを詮索する気力も沸いてこなかった。

「今日はもういい。…どのみち、明日に延ばしたところで結果が変わるものでもないだろう。
今無 理をしても、判断を間違える危険の方が高い」 

「…わかったわ」 

それっきり、彼女も口をつぐんでしまった。

空港の近くで、という条件で探してもらったホテルで2部屋取り、俺と十条寺が相部屋、ルリが1 部屋使うという部屋割りで眠ることになった。

ユウカはCOMPの中だ。

別に生体マグネタイトをケチったわけではなく、COMP内で構成データの自動修復プログラムにか けておいた方が、遥かに効率がいいからだ。

ジャックランタンのように死んでしまったら回復に相当時間がかかるのだが、そうでなければ一晩 で完全回復することも可能だ。

それなりに近代化の進んでいる都市でのホテルだから、夕食も結構豪勢なものだったが、
しかしそ れを楽しむような雰囲気ではなかったし、皆空腹が満たされると早々に部屋に引き上げた。

隣のベッドの十条寺は、まだ午後8時前だというのにいびきをかいて寝始めた。

しかし、本人が言 うには、どんなに熟睡していても殺気を感じたら一瞬で目が醒めるとのこと。

一方、俺は横になってもなかなか寝付けなかった。

暗闇の中で、あの人影に突きつけられた剣のごとき光線と冷水のような殺気、
ミユキの苦しそうな 顔、そしてなぜかユウカの泣き出しそうな顔が、かわるがわる浮かんでは消えた。

俺が感じていたのは、不安だろうか、恐怖なのだろうか、それとも…。

 

(つづく)