34章 チベットの朝

精神的に相当疲れていたはずなのに、夕べのことが気になって、よく眠れなかったのだろうか。

目が醒めたのは、夜明けとほぼ同時だった。

表の仕事、プログラマーとしての不規則な生活習慣が習い性になってしまっている俺にしては、早起きなど夢のまた夢だというのに。

任務の支障になるかと思われていた気圧の違いについても、だいぶ体が慣れたようだ。やはり、無理にでも一晩休養を取るようにしておいて正解だった。

「…」

隣では、十条寺がグーグーと寝ている。ちょっとやそっとのことでは起きそうにないが、俺は物音をたてないようにこっそりと着替えると、COMPを持って部屋を出た。

オベリスクの様子を見に行くためだ。

いくらこちらが事実上顔パス状態でどこに行っても大丈夫なように見えても、明らかに人間じゃないとわかる造魔を連れてホテルに泊まれるはずがない。

今までは敢えて考えようとはしてなかったが、組織として見れば、俺たちの敵はゴージャス男だけではないのだ。

悪魔を使って世界を思うがままに動かそうとする輩や秘密結社は枚挙にいとまがないし、
これまでに扱った事件で不幸にも巻き添えにされて、逆恨みされている場合もあるのだ。

そんな連中にいつ付け狙われるとも限らないから、俺たちは常日頃から目立つ行動は極力控えるようにしているし、
たとえ仕事でないときでも必要以上に人ごみの中に出かけることはない。

オベリスクのことも、例外ではない。

あいつの桁外れの戦闘力がなければ、今回の任務は話にならないほど過酷なものだから目をつぶっているが、
あの常人を遥かに上回る体躯と両腕のブレード、加えて全身を覆う生体装甲と、
あれほど目立つヤツを連れまわすのは、本来は危険極まりない行為である。

そこで、苦肉の策として思いついたのが、オベリスクをホテルの中に入れずに、
俺たちだけチェックインし、オベリスクは見張りも兼ねてホテルの側で野宿する、というものだったのだ。

果たしてオベリスクが、野宿という手段でちゃんと回復できるのかどうかという懸念はあったし、
何より造魔を一晩放っておいて、敵に見つかりでもしたら一大事だが、
黒幕のマインドコントロールを受けてない一般の観光客がうろつくホテルの屋内にいるよりはましだと判断したのだ。

廊下に出るときに、上着を抱えてくるのは忘れない。

春先といえど、こんなところの夜明けの外気温などびっくりするほど低いに決まっているから、
相当厚着をしている。その上上着まで抱えているから、抜かりはない。

今いる3階から1階まで、階段を使ったところでバテることはない。

それに、エレベーターは最上階で停まってしまっているから、降りてくるまでの時間が惜しい。

「…行くか」

そう呟いて、俺は階段を一気に駆け下りた。

そのままフロントに詰めている眠そうなスタッフに挨拶して、ロビーを通過しようとしたときだ。

「あ、御手洗様?」

「へっ!?」

思いっきり場違いな裏声で叫んでしまった。

ついでに絨毯を敷いてある床で急停止したものだから、つま先が引っかかって危うく転びそうになった。

…ちくしょう、こんなとこ他のメンバーに見られたらいい笑いものだぞ。

「な、何かな?」

どうにかその場を取り繕って、俺はフロントの女性従業員に向き直った。…やや動きがぎごちなかったのは、仕方ないと思ってもらわないと。

「昨夜遅く、御手洗様宛てに荷物が届いております」

女性従業員は、そういうと40センチ四方くらいの箱を取り出した。ちょっと引っかかったのは、その従業員がむやみに重そうにしていたことだ。

「うん…しょっと、こちらです。受け取りのサインは、こちらの用紙にお願いします」

やっとのことでカウンターの上に持ち上げると、その後は何事もなかったかのように事務的に俺の前に書類を置いた。

サインしながら、何気なしに左手で荷物を手に取ろうとしたとき、その従業員の行動が理解できた。

ちょっと力を入れた程度では持ち上がらないほど重かったのだ。

あれ!?と思って、今度はぐっと握り締めて持ち上げてみる。

…始めからわかっていればそう驚くほどでもない重量なのだが、確かに知らずに持てばぎょっとする重さだ。

ついでに言えば、これは女の人が気軽に持ち上げられるものではない。

「あ、重いですよ、お気をつけて」

サインを終え、その箱を手にしてフロントを離れようとしたとき、従業員が思い出したように声をかけてきた。

…トロいわい。そういうことは、客が箱に触る前に言っとくべきだろうが。

そう思ったものの、一応は背中越しに手をひらひらと振っておいた。

どうせこいつもあの黒幕のマインドコントロールを受けているのだ、それが解けるまでは何を言ってもさして意味がない。

それにしても、この荷物はどうやって送られてきたんだ?

あて先には、確かに俺の名前が書いてある。しかし、肝心の住所がまったく記載されていない。

それなのに、俺の元に届いたというのはどういうことだ?

…そもそも、このホテルに届いたということからしておかしい。

俺たちがここに泊まることにしたのは、はっきりいって成り行きだ。

マダムへの定時連絡は、敵の真意を探るまではやらない手はずになっているし、
ここに泊まることはこんな宅配便みたいな荷物を送ってくるような者が、ここの住所を知るはずがない。

それとも、この荷物は俺を追いかけてのこのこやってきたとでもいうのだろうか?

そこまで考えて、箱の側面を見ようとしたとき、そこに差出人の名前が書いてあるのに気がついた。

「…ぷくっ!!」

まったく。思わず、吹き出してしまったではないか。

そこには、ヘタくそなひらがなで「わん ふぇいゆん」と書かれていたのだ。

「わん ふぇいゆん」、すなわち「王 飛雲」。

王大人のことだ。

一体、何の冗談だよ、あのおっさんは!

…まあ、あの人が送ってきたのなら、俺たちに危害を加えるためのものとか、そういう物騒なものではないだろう。

こんなことをやらかして、彼の真意を図りかねるところはあるが、とりあえずオベリスクの様子を見ながら外で中身を確認してもいいだろう。

「まあ、何はともあれ、ありがとう」

とりあえずフロントの従業員にお礼を言って、俺はその箱を持ったまま外に向かった。

と、そのとき、箱の中身がジャラリと重々しい音を立てた。

「!」

妙に聞きなれた音。

自分でも息を呑むのがわかった。ためしに箱を右手に持ち替えてみる。

…そうか、そういうことか。たまたま、左手に持っていたからこの持ちなれた重量感に気がつかなかったのだ。

ようやく、箱の中身が何なのかわかったぜ。それに、なぜ王大人がこんな妙ちきりんなマネをしたのかも。

ついでに、この箱が俺を追いかけるようにしてホテルに届けられたのかという見当も、な。

「さて、と」

上着の袖に腕を通して、ホテルの外に出た。

箱の中身がわかった以上、必要以上に動じることもない。それに、人目のあるホテルで無闇にこれを開けるのは危険だし。

自動ドアが開ききった途端に突風がまともに頬を叩き、頭が瞬間的にきしむ。

「うくっ…!」

反射的に片膝を地面につきかけて、俺はなんとか踏ん張った。また、高山病がぶり返したのか?

…いや、そうか、当然といえば当然だ。ホテルの中は、外よりも若干気圧を上げているのだろう。むろん、宿泊客が快適に過ごせるようにだ。

とはいえ、気圧を平地並みにまで上げてしまうと、客が室内にいる間はいいが、
今度はホテルの外に出るたびに高山病に苦しむことになるから、上げすぎないようにという配慮もしてあるようだ。

現に俺は、そんな気構えも何もなく外に出たというのに、頭がちょっときしんだ程度で済んだ。

とりあえずはこの気圧でも普通に行動できる程度には体が慣れてきたのだ。

まあ、高山病とは別に右足が痛むのは相変わらずだが、これについては今はどうしようもない。

これでも、王大人の薬のおかげで、腱の周りの打ち身になっていた部分は完治しているから、昨日に比べれば痛みはいくらか弱まっているのだ。

それじゃあ、当初の目的をこなしておこうか。

周囲をざっと見渡す。

空港の近くということもあって、この辺はそれなりにビルが立ち並び、大型店舗なども充実していて、日本の地方都市に近いものがある。

そして、こんな時間からでも結構な人通りがあるではないか。

そういえば、ガイドブックにも少しだけ載っていたな。菩薩信仰の強いここでは、夜明けとともに祈りをあげるために大勢の人々が巡礼を行なうと。

だが、これはちょっとまずい。大声を出してオベリスクを呼ぼうものなら、あっという間に見つかって騒動になってしまう。

「…」

しばらく考えた末に、さっきの箱を上着の内ポケットに押し込み、空いた手でCOMPを取り出して悪魔召喚プログラムを起動させた。

大声を出してオベリスクを呼ぶことができない以上、ちょっとした裏技を使わなければ、あいつに指示を出すこともできない。

ホテルの建物の陰に入り、人目がこちらに向いてないことを確認してからユウカを召喚した。

察しのいい彼女は、今回の召喚では始めから人間の形態で姿を現した。

悪魔の形態のまま出てきて、派手に羽ばたいて人目を引くようなマネをしない配慮はありがたい。

「ユウカ、朝早くから悪いが、オベリスクがどこにいるか見当がつくか?」

造魔という存在に対して、人間より遥かに敏感な彼女なら、どこで休んでいるかわかるはずだ、と思っていたのだが。

…返事がすぐには返ってこない。

不審に思って表情を覗き込むと、何やら意味ありげな含み笑いをしているではないか。

そしてその微笑を口元に貼り付けたまま、不自然に擦り寄ってきた。女性特有のほのかな甘味を含んだ香りが鼻腔をくすぐる。

呆気に取られていると、小悪魔的な口調でからかうように話し出した。

「どうしてわざわざ私を呼び出した?そのCOMPとやらにも、オベリスクは登録されているではないか。
  私たちのようにしまい込むことはできんのかも知れんが、それを使えばあれに指示を出すくらいはできるのではないか?」

…なに?

とんちんかんなセリフのおかげで、我に返った。

確かに俺が使う仲魔は、COMPにすべて登録されている。オベリスクとて例外ではない。

しかし、COMPを通して指示を出したり話したりするとなると、話は別なのだ。

COMPを使って仲魔と話すのは、この中に悪魔を収容している時に限られる。

召喚してある仲魔と話すときは、普通に話さなくてはならない。通信機とはわけが違うのだ。

遠隔操作で、召喚してある仲魔を強制的にCOMPに収容することはできるが、
それができないオベリスクには、こちらの声が届かない場所から指示を出すことなどできない。

そんな事情もまるで気がつかず、ユウカは意味ありげな上目づかいで俺を見つめる。

「うふふふふ。それとも、私を呼び出すことが目的だったのか?皆に隠れてこっそりデートがしたかった、とか?」

…どきっとするような表情だ。

が、別に俺を誘惑して生気を吸い取ろうとするわけでもなく、単に俺を色仕掛けでからかって面白がっているだけなのは、その目を見ていればわかる。

…こいつめ。ここはひとつ悪ノリに付き合ってやるか。

「…どうだと思う?」

俺はさも意味ありげに呟いて、左手でユウカの腰を抱き寄せた。

こっちの反応が予想外だったのか、ユウカは、目をぱちくりさせている。

「え、え、ええっ?」

「騒ぐなよ、人が来る」

耳元でいかにもそれっぽく囁いて、COMPを持ったままの右手で彼女の肩を抱きしめた。

すかさず耳たぶに息を吹きかけると、ユウカはびくっと全身を震わせた。

「やんっ!な、なにをする!?」

「それはこっちのセリフだ。人が真剣に頼んでいるのに、デートだ何だとはぐらかしやがって」

がらりと口調を変えてそう言って、俺は彼女の体に絡ませていた両腕をほどいて両肩をつかみ、真正面から対峙する格好で彼女の顔を見据えた。

束の間、彼女は何をされたかわからない様子だったが、からかいをそっくり返されたのだと気がついたらしく、しばらくしてきりりと眉を吊り上げた。

…と、怒っているのは間違いないようだが、頬が真っ赤だ。目がつり上がっていても、まるで迫力を感じない。

なんか、スカートをめくられて「しょうがない子ね」と思われているレベルの怒りにしか見えないのだが。おまけに、しどろもどろでこんなことを言い出しては。

「びっくりしたではないか。お前が、その、あのような行動にでるなど、私は想像もしてなかったのだぞ…」

もしかして、照れてるのか?

だとすると、妙にかわいい一面も持ち合わせていることになるな。

だが、お遊びはこのくらいでいい。俺にとっては、オベリスクを呼び寄せないことには話が進まないのだから。

「お前に、そんなかわいいところもあるのはわかった。それはそれとして、こっちはCOMPを通してはオベリスクを呼べないんだ。
 あいつには目立たない場所で休むように言っただけだから、どこに行ったかわからなくなる可能性もあるんだ」

まだ何か言い足りなさそうにしていたのは当然かもしれないが、それも一瞬。

口を開いた時には、彼女の表情は元のように和んでいた。

「しょうがないマスターだな」

そう言う言葉は辛らつだが、声には棘はまったくない。

「造魔の感覚は、真上から感じる。それもやや距離があるな。…この建物の上の階か、周囲の建物の屋上にいるんじゃないだろうか」

「そうか、ありがとう」

これが聞ければ、とりあえずこいつを引き止めておくことはない。

COMPの中で窮屈な思いをしていたのなら、ちょっと変わった空気を味わわせるのも気分転換になるだろう。

「…そうだ、チベットの雰囲気を満喫したいなら、ホテルを出発するまで人間のフリをして、辺りを散策してきてもいいぞ。
ここの連中に自分のことを日本人だと思わせておけば、今のうちはたいていの融通が利くはずだ」

相変わらずの無愛想な返答が返ってくるのかと思いきや、ユウカは大まじめな顔で言った。

「いや、いい。ひとまずその中に戻る。今はCOMPの中に押し込められていようが、お前といたい気分なんでな」

「え?」

聞き返した俺の疑問を、ユウカは笑ってごまかした。

「それより、フロントで受け取った小箱、あれは何なんだ?」

ご丁寧に話題を逸らしてくるし。

だが、あれの中身は、俺自身でないとそうそうわかるものではない。彼女が興味を持っても不思議はないと言えるだろう。

「ああ、あれか…。見たいなら、通りから俺の姿が見えないよう、向こうに背を向けていてくれ」

「…わかった」

セリフの内容と俺の表情の変化から、大っぴらには見せられないものだと気がついたのだろう。ユウカは素直に従った。

通りから俺の手元が見えないことを確認して、俺はポケットから例の箱を取り出した。そして無造作に開ける。

覗き込んだユウカの瞳がわずかに見開いた。

「…王大人の差し金か。よくこんなに早く届けられたものだな」

彼女の感心したような言葉も頷ける。

箱の中に入っていたのは、空港の荷物検査で引っかかるのを恐れて置いて来ざるを得なかった、
愛用の拳銃と銀の弾丸の束だったのだ。

察しがついた人もいるだろう。俺が箱を受け取ったときの音の正体は、この銀の弾丸だ。

荷物をまとめていたとき、チベットへの入域チェックは、同じ中国の国内でありながら、国際線並みの厳しさがあるから、
直接武器を持ち込むのは無理だろうと王大人がアドバイスしてくれたのだ。

そこで問題になったのが、俺の拳銃だったのだ。ちょうど、日本から中国に来るときと全く同じことで悩むハメになろうとは。

そのときは王大人の、何か手を打っておこう、という言葉を信じるしかなかった。

その約束が今、こうして特急便という形で果たされたというわけだ。

なぜ、わざわざ王大人が署名をヘタっぴなひらがなで書いてきたのかはかなり難しい謎かけだったが、もしかしたら送り主を日本人だと思わせたかったのかもしれない。

こっちで積荷を扱うのはチベットの人間だ。

王大人には、俺たちがチベットに入域したことがわかれば、あるいは日本からの積荷は優先的に届けられるはずだという目論見があったのかもしれない。

ついでに言っておくと、オベリスクの方はむしろ簡単にことが運んだと言っていいだろう。

王大人の用立てたコンテナに入ってじっとしていることで、空輸貨物としてあっさりチェックを通過できたのだから。

空港内に入ってからコンテナを抜け出し、王大人の息がかかったパイロットの操縦する飛行機に乗り込みさえすれば、あとは何も人目をはばかることはないからな。

「これがあれば、お前も戦闘に参加できるわけだから、頼もしいな」

俺の手の中で鈍く光る銃身を見つめながら、ユウカが呟いた。

「ああ。だが使わずに済めばそれに越したことはない。
あの黒幕の正体を探ることが俺たちの任務だ、妙に日本人に友好的な理由がわかれば、ひょっとして…」

「戦わずに済むかも、か。上手くいけばいいがな。それで、造魔の方はいいのか?だいぶ時間が経ってるようだが」

あ、いかん!

唐突にそんな重要なこと、しれっと呟くなよ!!

それとも何か、この見事なまでの非情ぶりは、さっきのデートはぐらかしの仕返しだとでも言うつもりかい!

「早く言えよ!」

ユウカにそう言い捨てると、俺はホテルの中に引き返した。すでに太陽は完全に昇っていて、まともに見られないほど輝いている。人通りが多くなってからでは都合が悪いというのに。

ロビーに駆け込むと、運良く1階で止まっていたエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを叩く。そこから屋上までは非常階段を使ってもかまわない。

オベリスクの様子をみておきたいと思ったのは、ほんの思い付きなのだ。俺がこんなことをしているとは、誰も予想さえしてないだろう。

朝になったら俺がいない、などということになりでもしたら、皆に余計な心配をかけることになる。そんなことで騒ぎになる前に済ましておかなくてはならないのだ。

脚の傷が疼くが、ちょっとそれに構っていられる状況ではない。

そんなこんなで、やっとのことで屋上まで駆け上がると、俺は足をもつれさせながら飛び出した。非常階段を探すのに手間取ったから、走り通しで息が上がっている。

「オベリスク、いるか…?」

ぱっと見た範囲にはあいつの姿が見えないのを確認して、俺はそっと呼んでみた。

呼べばすぐにやって来られる距離で、なおかつ簡単には見つからない所で休めと言ってあるから、どこに隠れているのか見当もつかない。

と、いきなり頭上がかげった。

えっ、と反射的に頭の上を振り仰いだときにはもうそこに姿はなく、次の瞬間には俺の目の前にそいつは佇んでいた。

言うまでもない、オベリスクだ。

今の奇抜な出現の仕方からすると、こいつは屋上への出口の上によじ登って休んでいたのだろう。

「オベリスク、調子はどうだ?」

俺の問いに、バイザーの中の青い燐光を輝かせて頷く。

いかに強力な造魔といえども、無敵の切り札というわけではない。

無理をさせればエネルギー源となる生体マグネタイトも大量に消耗するし、傷もつく。

オベリスクも、ここまでの激戦で全身を覆う生体装甲のあちこちにひび割れや破損があり、
両腕の部分などは特に酷使したせいで、たった半日あまりの間にぼろぼろになっていた。

アイリスがいたときには強力な回復魔法で治療してやれたのだが、彼女が抜けてしまったため、
ユウカとルリの回復術で手当てしてやったのだが、完全には治らなかったのだ。

ネモ老人からこいつの世話のやり方を聞き忘れていたことを、こんなに早く悔やむことになるとは思いもしなかった。

あの時は、自分の造魔を手に入れたという感激で、そこまで舞い上がっていたのだ。

後はもう、こいつに自己修復能力があることを期待して休ませてやるくらいしか手はなかった。

…はずなのだが、その効果は想像をはるかに越えるものだったようだ。

回復魔法で治り切らなかった全身のひびや欠けた生体装甲が、何事もなかったかのように再生している。その動きにも、俊敏さが戻っていた。

こいつの一番の武器は、レーザーブレードや再生能力を持つ生体装甲などよりも、この素早い動きなのだ。それが復活したのは、非常に大きい。

「その分なら、心配なさそうだな。よかった。チェックアウトをしたら、俺たちは黒幕のアジトを探すから、遅れないようについて来るんだ。くれぐれも人目につかないようにな」

こんな無茶な命令にも、すぐに頷く。盲目的なようでいてやることは結構抜け目がないから、心配いらないだろう。まったく、並大抵の人間では太刀打ちできないほどの知能である。

ネモ老人が、こいつを託すにあたってさんざん俺たちを試したのも、今となっては頷ける。

さてと、こいつが本来の調子に戻ったのを確認したし、仲間の元に戻ろう。

時計の針は、6時半をすぎている。すったもんだしているうちに、1時間以上も経ってしまった。

早起きの習慣がついている人なら、既に目を覚ましている。

…と、やはり急がなくてはならないところなのだが、さすがに右足の傷が無理を押して歩けないほど疼いてきた。

「くっ…」

ちくしょう、エレベーターまでは左足だけを使って行くしかない。

「あ〜あ…。部屋に戻って十条寺やルリが俺を捜していたら、どうやって言い訳しよう?」

独り言が多くなるのも、無理ないと思ってくれ。

万が一にも、リーダーである俺が単なる思い付きだけで仲間に迷惑をかけたことになったらと思うと、気がめいるというものだ。

が。

「ふああああ〜。ん…?御手洗、こんな朝早くから散歩か?」

「…!」

片足でどうにか部屋まで戻ってきた俺を出迎えたのは、寝起きざまの十条寺の大ボケだったとは!

どうしてくれよう、この脱力感…。

35章 「聖なる」寺院

室内に入って、十条寺の寝ぼけたセリフに呆然としていた俺に追い討ちをかけるように、
ドアがノックされた。ちょうど、俺が今閉めたばかりの、だ。

「はい?」

とりあえず十条寺は放っといて、ドアから顔をのぞかせる。

だが、こんなことはマネしない方がいい。外国のホテルでこんなことをするのは、本来なら無防備すぎるのだ。

比較的大きいホテルの宿泊客が外国人ならば、裕福な人間のはずだと見当をつけて、それ専門で襲う強盗も多い。

言葉が通じず、事件を警察に届けにくいことも奴らにとって好都合なのだ。

ドアを開けた瞬間ナイフで脅されて金を取られ、挙句に殺されることだってないとは言えない。

しかし、それは普通であればのこと。

そこいらのゴロツキたちなら5対1でもあしらえるくらいの護身術は俺でも身に付けているし、後ろには悪魔とまともに戦える十条寺がいるのだ。

さすがに、銃は使うわけにはいかないが…。

それに、最近は催眠ガスを使う連中もいるが、それにだって耐性を持つ訓練は受けているのだ。

動けなくなる前に仲魔を召喚するだけの余力があれば、それで事足りる。

まあその場合、強盗どもの命までは保証できなくなるけど。

…ドアの外に立っていたのは、ルリだった。一応身なりは整えているものの、その大きな瞳は半分閉じられている。

目覚まし時計か何かで、無理やり早起きしたのは明らかだ。

「ね、そろそろご飯食べに行きません?」

そう言う声もかなりつらそうだ。もしかしたら、低血圧なのかもしれない。いやそれもおかしいな、昨日まではそんな感じはなかったのに?

などと考えていたら、猛烈な勢いで喋り出した。

「もう、昨日は本当にくたくたになりました。夕べ食事終わってからもう眠くて眠くて。

でも何が何でもお風呂にだけは入っておきたくて、それなのにそんな力も残ってなくて。

しょうがないからシャワーで済ますことにしたんですよ」

「お、おい…」

「もうその後は何も覚えてないですね。確かシャワーが終わったのが8時ごろだったとは思うんですけど、もう着替えもそこそこに眠っちゃったようなんです」

「おいったら…」

「で、さっきやっとのことで起きたんですけどね、なんで夕べはあんなに眠かったんでしょう?
飛行機の旅は初めてでもないし、そんなにへとへとになるまでつらい戦いが続いたわけでもなかったのに、
どうも調子がおかしいっていうか…」

「おいっ!!」

部屋の真ん前で延々と喋りつづけているのにやっと十条寺も異変を感じたのか、
俺の脇をすり抜けてルリを横抱きに抱えると、壁に跳ね返ったボールのような方向転換で部屋に戻った。

慌てて俺がドアを閉める。十条寺は、ルリの両肩をつかんでがくがく揺さぶった。

もしや、誰かに催眠術でもかけられたのではなかろうか!?

「おい、しっかりしろ!何をべらべら話しているんだ!!」

「あ…」

彼女の瞳が、ようやくちゃんと見開かれた。みるみる顔が赤くなっていく。

「すいません」

「いや構わんが、…今の変な状態は何だったんだ?」

「はい…夕べ高山症がひどくって、父からもらっていた薬を飲んだんですよ。
効果は非常に高いんですが、虚脱状態がかなり長時間続くという副作用があるんです。
傍から見てると、トランス状態に似てるんですが。
父も、まだこの副作用をなくす方法を研究中なんです」

なるほど。

つまり、彼女の場合はそこまで高山症がひどかったということなのだ。

こと回復薬に関しては、素晴らしいものをいくつも持っている彼女が、まだ未完成の薬を敢えて飲んだというのだから、よほどのつらさだったのだろう。

治療のエキスパートということと、体力があるということは別なのだから、無理もない。

しかし、何と言うか…。

そんなに薬で酔っていながら、異性の部屋にくるということでちゃんと服装だけは整えてくるあたり、さすが女の子というべきだな。

「わかった。とにかく、先に朝食を済ませといてくれ。俺と十条寺も仕度ができたらすぐにいく」

「はい」

まだ少し酔いが残っていそうな感じではあったが、とにかく彼女はそそくさと部屋を出ていった。

「さて、十条寺君も早く着替えなよ」

「ああ」

素直に頷いて、下着を手元に引き寄せ、ズボンをはく十条寺。

そう、彼はパンツ一枚という姿で寝ていたのだ。

廊下でぶつぶつ言っていたルリを黙らせるため部屋を飛び出したときも、もちろんその格好のまま。

ルリも、内心目のやり場に困ったのではないだろうか。

「それにしても十条寺君…いつもそんな格好で寝てるのか?」

「そうだ。寝るときくらい、身軽にしたいからな。こんな重いものをつけたままでは、寝るに寝られん」

「はあ?」

疑問符丸出しの俺の返事に、十条寺は黙って上着代わりに着ていたシャツを投げてよこした。

何の気なく受け取ろうとして、驚愕した。

ふわっと宙に舞うはずのシャツが、まるでボールか何かのようにまっすぐ向かってくるではないか!

それを裏付けるかのように、あわてて受け止めた手にかかる重みも、ずっしりしている。

信じがたいものを見るような目になるのが自分でもわかったが、とにかくそのシャツを確かめる。

よく見ると、シャツの生地は2重になっていて、その間にグラスファイバーのような細い繊維が一面に織り込まれている。

だが、これはシャツを間近で光に透かして見たからこそわかったのであって、生地の色に合わせて白く塗装してある繊維は、遠目にはまったく気がつくことはない。

「十条寺君、これ、生地の中に織り込まれているのは…」

「衝撃を吸収する効果と、体につけるおもりの役目を同時に果たすための軽金属でできたものだ。
修行の一環として着ているが、寝ているときは力が抜けるから、肺がつぶれそうになるからな」

答える十条寺にとってはごく普通のことなのか、着替える手の動きも止まらないし、口調もいつもと変わらない。

つくづく、武道家というのは修行には労力を惜しまないものなんだな。こんなのを着て戦っていて、よくあんな敏捷な動きができるもんだ。

そんなことを考えているうちに、十条寺も着替え終わり、俺の手からシャツを取り返した。

「行くぞ。ルリをいつまでも待たせておくわけにもいかん」

…やれやれ。

ホテルのレストランで朝食を済ませて、俺たちはチェックアウトするとすぐにタクシーを拾った。

こういう、外国のホテル内のレストランで食事をするときは、嫌いなものが含まれてないなら、その土地に合った食べ物を選んだほうがいい。

よく見かけるのが、観光客たちの地元に合わせた料理をずらりと並べているレストラン。

日本人の場合だと、寿司とか味噌汁とかを並べているアレだ。

こういうのは、一見客の好みをよく理解しているようだが、
その土地で取れる食材を持ってきて無理やり調理法だけを合わせた場合が多いし、料理するのも本当の味を知らない外国人というのが普通だ。

だから、よほどその方面にこだわりを持っているレストランでない限り、
思ったような料理が食べられなかった、まずかったという感想を持つことになる。

それよりは、その土地に合った料理を食べたほうがよほどいいのだ。

慣れない料理が口に合わない可能性はあるが、少なくとも地元の人間が食べてまずいと感じるような料理は出てくるはずがない。

つまり、ちゃんと食べることさえできれば、うまいものにありつける見込みがずっと高いのだ。

見知った料理を食べようとして、こんなはずではなかったとしょげるよりは、よほど前向きではないかと思っているんだが。

案の定、タクシーの中でも真っ先に出た話題はそれだった。

「うむぅ…。御手洗、あんなに味のついた飲み物、よくあんなに飲めるものだな」

唸るように切り出したのは十条寺だ。

「ん、バター茶のことか?あれは、来る前に読んでいたガイドブックに載っていたやつなんだ。ああいうものなんだと思って飲めば、そんなに苦にはならないぞ」

「そうですか?わたし、あの脂っこい感じは口に合いませんでした。さすがに、十条寺さんみたいに一口含んだ途端、ぶわ〜って噴き出すのだけはみっともないかなと思いましたが…」

その光景を思い出したのだろう、ルリはセリフの最後にくすっと笑った。

確かにあれは、周り中の注目を集めたし、俺ものけぞってしまった。

「しかたなかろう。お前だってたった今、口に合わなかったって言ったばかりではないか!」

十条寺がムキになって反論する。

「それはそうですけど、まさか十条寺さんも日本食しか食べられないってわけではないんでしょ?日本こっちに来て修行してたわけですし…」

「あれは食い物の味ではなかったぞ!なんというか、その、…え〜とだな…」

珍しいな、こいつがここまでしどろもどろになってでも食って掛かるというのは。

もしかしたら、食べ物には彼なりのこだわりがあるんだろうか?

…などとしょうもないことをだべっていたら、何となく、和やかな気分に浸ってしまった。

考えてみたら、ムードメーカーであったアイリスとミユキが相次いで脱落したことで、俺たちは緊張の糸を緩めることがほとんどなくなった。

ゴージャス男との決戦後など、神経が昂ぶったままだからなかなか寝付けなかったり、蛇口の水滴がぽたりと落ちる音ですら何事かと目を覚ました者もいたのだ。

ふと気がついて他の連中の顔を覗き込んでみたら、たった2、3日で、みんなの顔つきまで険しいものになってしまっていた。

…しまったな。

これが敵の術中に陥っている運転手のタクシーでなかったら、もっとハメを外してやることもできただろうに、
今はせいぜい、談笑していることで束の間任務のことを忘れさせてやるのが関の山だ。

本来なら、みんなの精神状態を良好に保つために、もっと息抜きをさせるべきなのだ。とりわけ、ここまで死線をくぐり抜けるようなハードな任務の場合は。

精神状態が極限まで追い詰められると、人間は驚異的な力を発揮するが、決定的な場面で誤った判断を下すという危険を孕む。ホラー映画などでよくあるパターンだ。

次から次へと起こる事件に対処し切れなくなって、ついには巻き込まれた人間たちの方が自滅するようなトラブルを引き起こすという、あの展開だ。

パニックを起こした人間というものは、それほどもろいのだ。

それは、俺たちのような危険を生業とする人間にしたって同じこと。

そうならないためには、節目ごとに何らかの形で皆に余裕を与えてやらなくてはならないのだ。

…マダムは、そのための緩衝材としてミユキとアイリスを俺たちのメンバーに加えたのかもしれない。

それを、俺は脱落させてしまった。

結果として、残りのメンバーを追い詰めるようなプランを平気で押し進めている。

すまない。こんな強行軍につき合わせてしまって。

俺は十条寺とルリ、人目を避けて俺たちについて来ているはずのオベリスク、そしてまだCOMPの中にいるユウカに、心の中で詫びた。

そんな俺の胸中を知ってか知らずか、2人はまだ食べ物の話に華を咲かせている。

一方、ひたすら前を見つめてタクシーを走らせる運転手は、俺たちの話などまるで耳に入ってないような雰囲気だ。

どのみち、あの黒幕のマインドコントロールがかかっているから余計な行動は一切取らないのだろうけどな。

なにせ、向こうは目的地に着くまで、あらゆる便宜を図っているのだから。

こうしてタクシーで移動しているのだって、ホテルを出てその辺で客待ちをしていたタクシーを拾って、「目的地まで頼む。場所はわかってるよな」でOKだったのだ。

ルリも十条寺も、さすがにそんな無茶を言ったってダメだろうと反論したのだが、驚いたことにそれで運転手が頷いてしまったのだから呆れたものだよな。

「…ところで、目的地まであとどのくらいかかるんだ?」

手持ち無沙汰になった俺は、他にこれといってやることもないので運転手に声をかけてみた。

窓の外に目をやったって、賑やかだったのは空港の周辺だけで、15分も車で走れば、あとは高原特有の乾燥した岩だらけの大地とヤクの群れ、
そしてこれだけは美点として挙げてもいいと思われる、どこまでも続く澄み切った青空だけだった。

結局、誰かと話しているか、何か作業をしてないと間がもたないのだ。

背後にちらちらと目をやれば、ときどき異形の影が視界をかすめるが、これはオベリスクがちゃんとついて来ている証明だ。

さらに言えば、あいつがおかしな尾行者を始末してくれていることでもある。

となれば、あとは話すくらいしかやることがない、というわけだ。

「あと20分、天候が悪くなれば…もう少し時間がかかるかも知れませんね」

例によって抑揚の感じられない話し方だったが、それでもきちんと答えは返ってきた。

それにしても、このタクシーに乗ってからまだ30分と経ってない。ちょっと郊外に出たら、ろくに舗装もされてない道を走っているのだから、スピードもかなり低い。

俺が運転手に声をかけてから会話を中断していたルリが、難しい顔になった。

「このスピードで、つごう1時間足らずで目的地まで着いてしまうということは、思ったよりも街に近いところに潜んでいることになりますね」

初めての土地だから一体どの方角に向かっているのかさっぱりわからないし、何度かカーブを曲がっているから、彼女も直線距離がどうのというつもりはないだろう。

が、十条寺は意外にも驚いた表情をまったく見せなかった。

「そうは言うがルリ、お前のところはどうなのだ」

「えっ?」

言うまでもなく王大人飯店のことだ。

「あそこだって、北京の中心街からそう離れているとは言えんぞ。
…これは俺の想像でしかないのだが、アジトは、街の中心地に近ければ近いほど情報が集まるから都合がよい。
だが、不特定多数の人が集まるから、その分敵に見つかりやすくなるという危険も抱え込むことになる。
そういうメリットとデメリットの天秤がちょうどつり合った場所にアジトを構えるのが常套手段なんじゃないのか」

ほほう、なかなか言うじゃないか。

一概にそれだけで本拠地という重要なものを決められるものではないのだが、基本的な考え方は彼の言っていることで正しい。

ルリも、少し複雑そうな顔になった。

「父の場合は、それだけでもないんですが…あ、いえ、十条寺さんの言っていることが間違いっていうわけではないんですよ。
でも、わたしたちの行き先も似たようなものだということは、もしかして、人間の考えることって、国や環境が違っても、そうそう変わるものではないのかもしれ…」

「あの方が街の側に聖地を作ったわけではありません。やつらが聖地の側に街を造ったんです」

「ひっ!!」

ルリの言葉を遮ったのは、なんと運転手だった。

こいつが自分からしゃべったことにも驚いたが、この言葉にはそれ以上に俺たちを驚かせるものがあった。

感情こそこもってなかったが、車内にいるものが思わず首をすくめるほどの大声だったのだ。

マインドコントロールがかけてあってこれほどの反応を示すのだから、
自分の感情で今の行動に出たとしたら、俺たちは怒鳴りつけられているか、ヘタをすれば殴りかかられている。

「せ、聖地…だって?」

「そうです。あの方は、聖地におられます。そこをお守りになるため、あの方は聖廟を建立されました。私が案内するのは、そこです」

そう説明する運転手の口調は既に元に戻っているが、さっきの反応にはこの一連の事件の裏側を垣間見たような手ごたえを感じた。

「せいびょう?何だそれは」

「聖廟だ。平たく言ってしまえば、国王や民族の指導者など、偉い人が死んだとき、そこに葬って祀るための寺院だ」

「ふむ、ピラミッドや日本の古墳と同じようなものなのか」

聖廟という普段聞きなれない言葉に戸惑っている十条寺に、俺は説明してやった。

だが、説明しながら、俺は妙な違和感を感じた。

聖地を守るための聖廟と運転手は言った。

だが、今十条寺が言ったように、聖廟とは本来、お墓と同じものである。

聖地を守るために寺院を建て、そこに守り人が詰めるのは別におかしな話ではないが、それならばお墓ではなく、ちゃんとした寺院を建てるのが普通ではないのか?

それに、そもそも何の聖地なのだろう?

疑問は一気に湧いて出たが、さっきの運転手の大声に気圧されたのか、それ以降は本当に誰も口をきかなくなってしまった。

こうなると、時間の経つのが非常に長く感じられるようになる。

運転手が車を停めた頃には、俺たちは悪路に揺られるのにも辟易していた。

彼が黙って指差す方向には、あの影が俺たちに見せた寺院がそのままの格好で佇んでいる。

「…」

全員、タクシーから降りるときも言葉を発しない。そこから発せられる、一見ちっぽけでみすぼらしい寺院の外観からは想像もつかない、ただならぬ気配を感じていたからだ。

何しろ、上を見上げれば晴れ渡った青空が広がっているはずなのに、この周辺だけが薄暗く感じられるのだ。

霊感などにはとんと縁がない俺でさえ、辺りの空気が歪んでいるような不快感を感じるのだから、
道術を操るルリや、武道家として直感を磨いている十条寺にはどう感じられるのか、見当もつかない。

それに、あちこち崩れて荒れ果てた門扉、地面や壁面にべったりへばりついた血痕…。

寺院というよりは、本物のお化け屋敷という雰囲気だぜ、これは。

案の定、2人の顔色は蒼白になっている。

と、そのときだ。

「ひいいいいぃぃぃぃぃぃぃ!!」

耳をつんざく断末魔の絶叫が、寺院の方から飛んできた。

「ぬわっ!?」

「きゃんっ!!」

「何事だ!」

完全に不意を突かれてしまい、全員が身構えた。何も反応を示さなかったのは、車の中にいた運転手だけだ。

「い、今の悲鳴は…?」

「…ああ、俺も悪寒が走った。あれは死ぬ間際の断末魔だな」

やっとのことで呼吸を整えて、それでもなおルリが怯えた声で聞いてきた。完全に度を失っている。

かく言う俺も、声が震えてしまっていた。この雰囲気で今の絶叫だ。気の弱い人間なら、ショックで気絶しかねない。

一方、十条寺は俺たち2人より立ち直りが早かった。そしてくるりと後ろを向くと、運転手を睨みつけた。

「おい運転手。ここは聖廟とかいうのではなかったのか?この雰囲気といい、今の絶叫といい、どう考えても聖地というには程遠いぞ。
一体ここはどういう寺院なのか、知っているならこの場で話してもらうぞ!」

後半は、脅しをかけるかのように叫ぶ。それでも、運転手はいっこうに動じない。

「ご自分たちの目で見てもらうのが一番ではないかと思います。私はここで待ちますので、中にお入りください」

「…」

十条寺の顔に、無念そうな感情が走った。

舌打ちをすると、誰に言うでもなくつぶやく。

「…だめだったか。さっきの運転手の反応からして、こいつのマインドコントロールは完全ではないのかと思ってカマをかけてみたが」

そういうことか。

今の十条寺がやったように、意味もなく怒鳴られれば、誰だって不快に感じる。

正気の人間なら、それを隠そうとしても一瞬の表情や声色の変化まで抑えきれるものではない。

彼は、そこから何かを引き出そうとしたのだろう。

尋問としてはオーソドックスだが、有効な手ではある。もっとも、この運転手相手には徒労に終わったのだが…。

そのとき、ようやく気を取り直したルリが俺たちの肩を叩いた。

「ここでこの運転手に詰め寄っても仕方ないわ。何より、すべての核心はこの寺院の中なのよ。さあ、行きましょう」

「…そうだな」

もう、ここまできたら作戦だの小細工だのは意味をなさない。俺たちは、ルリの意見に頷いて寺院の門をくぐった。

1歩ごとに、悪寒が強まってゆくのがわかる。ルリが次第に焦り出した。震える手で荷物から遁甲板を取り出してあれこれいじっていたが、やがて真剣な目でこっちを見上げた。

「これは…。まずいわ、この中ではとんでもない怨念が渦巻いている。何の護りもなしに建物の中に足を踏み入れたら、たちまち取り殺されてしまうかもしれないわ」

「なんだって?ルリ、道術にそういうのから身を護る護符みたいなのはないのか?」

俺も十条寺も魔術や道術など、超自然現象を操る力は持ってないからルリだけが頼りだ。

しかし、彼女の返事は絶望的だった。

「…あまり効果はないでしょうね。入る前に気がつくべきだったんだけど、この建物には地脈が通ってないのよ。
この先に、大きな地脈の分岐点があるから本当ならそのエネルギーの恩恵を受けているはずなのに、建物の中だけはそれが遮られてる。
そして、道術の大部分は地脈の力を使って術を成すものだから…」

「その地脈の届かないところで道術の護符を振りかざしても無駄、か。むう。…しかし、ここが地脈の分岐の近くだったとは。ここが聖地だというのはあながち嘘でもないということか」

十条寺が1人で納得しているようだが、こちらは前途多難だ。これでは中に入れない。

しょうがない、あの運転手に見られるのは覚悟の上で…あいつを召喚するしかないか。

未だに完全に扱いきれる仲魔ではないし、運転手が騒ぎだす恐れもある。

そうなると巻き添えが増える一方だし、あまりやりたくはないが、万が一の場合は口封じも考えなければ。

「御手洗、何を物騒なことを考えている!?」

突然、十条寺が俺に向き直って怒鳴った。

こっちはCOMPにコマンドを入力していた最中だったから驚いたのなんの。

それも物騒なことを考えていることまで見抜かれているときたもんだ。

「あ、一体…唐突に何を言い出すんだ?」

ルリはこのやり取りに驚いて口を開けたままだ。十条寺は俺から目を逸らさない。

「お前の殺気はわかりやすいんだ、今運転手の方を睨んでから殺気を放ち始めただろう。
無関係の人間を巻き込まないやつだというのはわかっているが、それがなんで運転手を手にかけようなどと考えた!?」

…いやはや。こういうときの洞察力には恐れ入る。全てお見通しかよ。

こうなると、その場しのぎの言い逃れをしても意味がない。

「…仲魔を召喚して、そいつの守護力で護符を強化しようと思ってな。
ただ、いくらマインドコントロールを受けていたとしても悪魔を召喚するところを部外者に見られたら、ショックで目を覚ましかねない。それを恐れて…」

「ばか者」

こんっ。

頭の上に、小石が飛んできた。十条寺が器用に爪先で蹴り上げたものだ。

「そんなことなら、当て身なり麻酔なりで気絶させておけばいいだけの話だろうが。
自分でできないからといって、俺たちの力を借りずに何でも1人でこなそうと…」

と、こんな状況で説教を始められたところに、ルリが助け舟をくれた。

「待って、御手洗さんの判断も無理ないわよ。洗脳されている相手を眠らせるのは、結構難しいわ。ヘタをすると、洗脳が解けてしまうもの。でも…」

まだ何か言いたそうな十条寺に向かって、ウインクするルリ。

「今ここで洗脳が解けたとしても、わたしたちは困らないわ。
目を覚ます頃には、敵を倒しているか、相手と話がついているか…どちらにしろ、全てが終わっているもの」

「なるほどな。では」

納得した顔つきで、十条寺は指の関節をぽきぽきと鳴らしながらタクシーに戻っていった。

あ〜あ、これでは俺たちが悪企みをしている連中みたいじゃないかよ!

36章 真相(1)

『待て左京。制御不能な悪魔を呼び出すほどの危険を冒すことはない。
道術なら今までの戦いで見せてもらった。あの気の流れなら、私の力で強化することも可能だ。私が外に出よう』

「…あれ?」

十条寺の当て身で運転手はめでたく気絶したので、さあ召喚をやり直そうとしたとき、COMPのモニタにこんなメッセージが入っていたのだ。

おそらく、COMPに途中まで打ち込んだコマンドで、厄介な悪魔を召喚しようとしていたことに気付いたのだろう。

こんなメッセージを送ってよこす仲魔など他にはいない。

ユウカだ。

まあ、彼女の力でこの寺院の中に安全に入れるならそれに越したことはない。

ここは素直にユウカを召喚するのがベストだ。

果たして、呼び出されたユウカは得意満面の面持ちだった。

今までは俺の一存でCOMPから出し入れされていたようなものだったが、初めて全員に必要とされて召喚されたからだ。

「黒幕にご対面するまえに私の力が役立つ場面が来るなどとは、思いもよらなかったな」

「へいへい」

こいつめ、わざともったいつけて。

妙に人間臭いのも良し悪しだな。

こっちはそんなことをしている間にも、刻一刻と体温を奪われていくような思いをしてるというのに。

「だが、確かにこの怨念は尋常ではないな」

そう呟くと、彼女はきりっとした表情になって指をパチンと鳴らした。

途端に、ルリの胸元から白い閃光がにじみ出した。

「ルリ、その光っている護符を2人に渡すんだ。
左京のコンピュータに詰まっている生体マグネタイトを地脈と同じものに変換して放出するよう魔力を固定したから、
私と左京が近くにいる限り、その護符は本来の力を発揮できる」

「あ、ありがとうございます!」

お礼を言って、ルリは懐から2枚の護符を取り出すと、俺と十条寺に手渡してくれた。

護符の効き目は大したもので、手に取った瞬間に寒気がすっと消えたのだ。

これで全力で戦える。ユウカも魔力の固定にはほとんど力を割いてないから、戦闘力には問題ない。

「さて、これからが本番だ。…オベリスク、お前も来い。みんな、行くぞ」

俺の命令に応じて、オベリスクがタクシーの後ろから姿を現した。そして一同の戦闘に立つ。

その隣に十条寺が並んだ。真ん中に俺とルリ、背後を突かれるのを警戒して、ユウカが最後尾を務める。

いよいよ、黒幕のアジトそのものに足を踏み入れるのだ。

玄関の入り口に扉は付いてない。

俺たちが土足のまま踏み込むと、埃がふわっと舞い上がった。

コツン、コツンと、俺たちの足音だけが辺りにこだまする。ただ、外から見た印象に反して、中は意外と広い。

明り取りの窓もないため、昼間だというのにライトが必要なほど薄暗い。

「…不気味なくらい静かだな」

ふと、独り言が洩れてしまった。さっきの断末魔が嘘かと思えるほど、物音ひとつしない。

だが、周囲のありさまは、凄惨の一言に尽きた。

「御手洗!足元を照らしてくれ!」

十条寺の鋭い声にマグライトを向けると、赤黒い棒のようなものが転がっていた。

…それが血にまみれた人間の骨だとわかるのに、数秒かかった。

慌てて周囲を見渡すと、そこらじゅう一面が、血をべったりと塗りたくられたかのようになっていたのだ。

加えて、正体を探るのがおぞましくなるようなオブジェがごろごろしている。

さっきの血にまみれた骨、銃を掴んだまま肘から切り落とされた手首、
わき腹に短剣が突き刺さったままのミイラ、鳥につつかれたのかあちこちが欠けた頭蓋骨…。

よくルリが悲鳴をあげなかったものである。

寺院の玄関からしてそんな状態だったのだ。土地の人間が聖地と呼ぶここで、一体何があったというのだ?

その時だった。

「ぐええええぇぇぇ!!」

例の断末魔だ。今度は、はっきりと方向を特定できた。

正面に続く廊下の、右の部屋だ。

「いくぞ!」

俺と十条寺が同時に叫んだ。そして、全員が駆け出す。

あっという間に玄関を抜け、廊下に出た。

人が2人並んで歩けるかどうかの狭い通路で、右に2つ、左に3つ、15メートルほど先の突き当たりに1つの扉があるだけの簡素な廊下だ。

悲鳴が聞こえたのは通路の右手、それも手前側の扉からだ。

後から続く俺やユウカが追いつくのももどかしそうに、十条寺は扉を蹴破るように開いた。

最初に中の光景を見た十条寺が、彼の背後から覗き込んだルリが、最後尾にいたユウカが、一瞬で凍りついたように動きを止める。あのオベリスクでさえも。

脚の傷をかばいながら走っていた俺が結局最後になってしまったが、仲間が次々に棒立ちになっていく様子は、見ていて戦慄が走った。

だが、それも数秒のタイムラグでしかない。

部屋の中で行なわれている光景には、皆と同様に俺も絶句する他なかった。

まさに地獄絵図という表現が相応しかった。

古い軍服を着た兵士が、両手足を壁に太い杭で縫いとめられた状態で、
何人もの醜い姿の男たちにたいまつで火をつけられ、何かの液体を浴びせかけられているのだ。

液体は火に触れると、狂ったように炎を吹き上げる。あの反応から見て、灯油か燃料だろう。

兵士は皮膚から筋肉から体液から、炎に蹂躙されるがままに焼き尽くされ、耳を覆わんばかりの絶叫をあげた。
だが、周りの男たちは液体をなおも浴びせかけつづける。

こんな無茶なリンチに何秒も耐えられるわけがなく、兵士はじきにがっくりと首を垂れて絶命した。

しかし、驚愕の瞬間はここからだった。

なんと、息絶えたはずの兵士の体が、ビデオテープを巻き戻すようにみるみる再生されていったのだ。

焼け焦げた骨と内蔵のなごりだけに成り果てていた骸に肉が付き、皮膚がまとわりつき、全身に血の気が戻ってくる。

だが、壁に縫いとめられたままの両手足はそのままだ。

そしてまたもや、周りの醜い男たちが先ほどの凄惨な火攻めを繰り返すのだ。

部屋の広さはせいぜい4メートル四方でしかないのに、狭さをまるで感じさせないほどの凄まじさ、残虐性がそこに充満していた。

「えっく…えっく…」

ルリが口元を押さえて嗚咽をもらす。だが、泣いているのでもなかった。彼女の足元には異臭を放つ黄色い水溜りができている。

あまりのおぞましさに嘔吐したのだ。

だが、目の前の光景は彼女の許容量を越えたものだったため、胃の中のものを全部吐き出しても吐き気が止まらず、苦しんでいるのだろう。

「うわあああ!ぁぁぁぁ…」

今度は背後から絶叫が響いてきた。今いる部屋の、ちょうど真向かいだ。

「ルリ、お前は見るな!」

おそらく、反対側の部屋でも同じようなことが起きているはずだ。

彼女をこれ以上、こんな地獄絵図につき合わせていたら、発狂してしまいかねない。

そう判断して、その場にうずくまってしまったルリを後ろに下がらせてから、向かいの扉を開ける。

こちらも、ひどい拷問だった。

やはり古い軍服姿の兵士が、醜い男たちに生きたまま土の中に埋められているのだ。

両手足からおびただしい血が流れているところからすると、おそらく骨を砕かれているのだろう。

拘束されているわけではないのに、ぴくりとも動かせないようだ。

休む間もなく上からかぶせられる土によって、兵士の姿はほどなく見えなくなり、彼はこんもりとした山と化した。

だが、醜い男たちはそれで満足したわけではなかった。

口を覆われ息ができなくなり、悲鳴もくぐもったうめきにしか聞こえなくなったというのに、なおも兵士の上に土をかぶせ続けているのだ。

山の高さは50センチになり、70センチになり、それでもまだ高くなっている。

やがて、土の中に小石が混じり始めた。

小石の量はだんだん増えていき、次第に大きいものになって、いつの間にかかぶせられる土は全て石に変わってしまっていた。

こうなると、埋められている兵士にはとんでもない重量がかかってくることになる。

悲鳴は、絶叫に変わった。

それでも醜い男たちの石積みは続く。いや、既に石は岩に変わっていた。

ひとつ積むたびにドスン、と地響きが起きる。その都度、とてつもない質量に組み敷かれている兵士の骨が砕ける音が響く。

そんなことを7回ほど繰り返したところで、兵士の声は聞こえなくなった。息絶えたのだ。

が、それもしばらくすると山積みされた岩の中から兵士の腕や足が突き出してきて、外に這い出てきては醜い男たちに両手足の骨を砕かれるのだ。

これは、この光景はどういうことなんだ?

あまりの異常な光景をまともに見たことで、感覚が麻痺したのだろうか。

こんなのを目の当たりにしているというのに、だんだん冷静さが戻ってくる自分に驚かされた。

そうして、やっとこの光景の違和感に気が付いた。

「十条寺君、こいつら…実体じゃないな」

「な、なにが…?」

十条寺の方はまだショックから覚め切ってないようだ。

「きついかもしれないが、あの連中の体をよく目を凝らして見るといい。手足の先なんかが透けている。
これは、ホログラム映像みたいなものだろう」

そう言ってやっても、彼の顔色は青ざめたままだった。

「じ…実体じゃないかもしれんが、お前は本当にただの映像だと思っているのか!?
あの兵士たちの悲鳴は、拷問を繰り返すたびに変わっているんだぞ。そんな映像があるものか」

「…う〜ん…」

確かに十条寺の言った通りだった。それに、単なる映像でこんなに臨場感は出ない。

映画などでは臨場感を煽るために必要以上に音量を上げたり、観客の周囲から音を出すなどしているが、ここでそんなことはできっこない。

何より、兵士の恐怖に歪んだ顔は俺たちを見つめて助けを求めていたのだ。ルリはこれにまともに当てられたのだ。

「これは、霊魂による霊魂の呪縛だな。あの兵士たちは安らかな死を願っているが、
リンチをしている周りの男たちはそれを許すつもりはない。
この場所に渦巻いている怨念はそれが原因だが、お前たち人間に見えるようにわざわざ細工している理由がわからない」

俺たちと同様なショックは受けたものの、いち早く立ち直ったユウカが説明してくれた。

悪魔だけに、こういう気や霊の乱れというのには詳しいのだろう。ルリがダウンしている今は、頼もしい限りだ。

ようやく、十条寺もいつもの冷静さに戻ることができたようだ。

「…誰かがこのムチャクチャな光景を、俺たちに見せたがっているということなのか?」

「そうとしか思えん。今はまだ、この光景が何を意味しているのか、誰が見せたがっているのかもわからんからな」

「ユウカ。…見せたがっているのは、あの黒幕しかいないわよ。ここを指定してきたのは、あいつの方でしょう」

そういったのは、ルリだ。

「おい、もう大丈夫なのか?」

「はい。…吐き気は、収まりました」

気丈に言ってのけた彼女は、口に何かを含んだ。持ってきた回復薬に間違いないだろう。見る間に顔色が戻ってくる。

その様子を見てユウカもほっとしたような表情を見せた。

「言われてみればそうだな。だが部屋の中で繰り広げられている、
この地獄絵図は何を意味するのか、まだわかってないからな。どうしたものか」

そう言って、彼女は首をひねった。

と、そんなことを論じている間に、十条寺は廊下の右手奥の扉を開けているではないか!

「待て!不用意に…!」

あけるな、と叫ぶ前に扉の中からまたもや絶叫が響いた。

さすがに慣れてきたのだろう、全員がすくみあがることはなくなってきたが、それでも人間が死ぬときの断末魔の絶叫だ。

聞いたときの精神的なショックは変わらない。

十条寺はそれに苛まれながらも、中を覗き込んだ。

そのとき、俺はある可能性に気が付いて、十条寺が開けた扉の向かいの扉を開けてみることにした。

今見た部屋の中では、どちらも古い軍服の兵士が醜い男たちに私刑を受けていた。

その方法が、火攻めと生き埋めだったというだけの違いだ。

とすれば、他の部屋でも同じことが起きているのではないか。
あの黒幕が俺たちをここに呼び寄せた理由は、これを見せることで何かを伝えようとしているのでは?

だとすれば、俺たちは嫌でもこれを見た上で黒幕と会わなければならない。

3度目ともなると、あらかじめ身構えてから扉を開けているからパニックに陥ることはない。

中は、兵士が醜い男たちに水攻めに遭っている光景だった。やはり兵士が男たちに私刑を受けているものだったのだ。

全身に太い鎖をがんじがらめに絡み付けられて、必死に浮いてこようとする兵士を男たちが棍棒で殴りつけて沈めているというものだった。

「御手洗、そっちはどういう内容のものだった?」

その声に背後を振り返ると、十条寺がこちらを振り返っていた。

「前の2つとよく似た内容だ。兵士があの男たちに水攻めに遭っているものだった」

「そうか。こっちは、兵士が真っ赤に焼けた刃物や金づちでめった切りにされるものだった」

「うわ、壮絶だな」

十条寺の見た内容を想像すると、思わずのけぞってしまった。

「それって、もしかして…」

横合いから出し抜けにルリの声がした。俺たちの今の会話を聞いていたのだろうが、彼女はそこまで言って、眉をひそめて考え込み出した。

「何だ?思い当たることがあるなら言ってくれ」

俺がそう促すと、彼女はまだ開けてない、廊下左手の一番奥の扉を指差した。

「…この5つ目の扉、この中ではおそらく…木を使った拷問をしていると思います」

「き…って、草木の、あの木のことか?」

「そうです。火攻め、水攻め、生き埋め、めった切り…
その殺され方が、道術の陰陽五行のうち、五行の要素、火、水、土、金に対応しているって気が付いたんです。
残る五行の要素は、木。そして扉もあと1つ、そうなると…」

木を使った殺し方をしている可能性が高い、ということなのだろう。

廊下の突き当たりの扉は、ここまでの扉と違って、開けようにも取っ手がない。それにこの扉だけが装飾が多く施されている。

他の扉とは違うのは明らかだ。それに、この寺院には他に部屋がないのは、外から見たときの建物の大きさからわかっている。

となれば、やつは俺たちが全ての私刑の様子を見るまで、この奥に通すつもりがないということだ。

ようし、そういうことなら…!

意を決して、俺は5つ目の扉を開いた。

中では、ルリが言った通り、兵士が大木の幹に縛り付けられていた。

だが、周囲にあの醜い男たちの姿はない。一瞬拍子抜けしたが、あの兵士が木に縛り付けられている以上、ただで済むはずがない。

しばらくそのまま見ていると、突如虚空から猛獣の群れが沸いて出てきた。すべて霊魂が演じるからこそ可能な、残虐な殺戮ショーのパロディーだ。

恐怖に歪む兵士の顔が痛々しい。

猛獣の群れは兵士に狙いを定めると、一斉に襲い掛かった。

哀れな兵士をむさぼる猛獣たちの咀嚼音が聞こえないのは、せめてもの救いだろう。

ほどなく兵士は全身を食らい尽くされ、骨に軍服が引っかかっただけの状態になった。

と、その途端、縛り付けられていた木が何の前触れもなくぽっきりと折れたのだ。

既に息絶えたというのに、その大木は無慈悲にも兵士の背骨をへし折り、頭蓋骨も肋骨も押し潰す形で地面に横倒しになった。

…あとは、最初からの繰り返しだった。

「ルリの言った通りだったな。この5つの部屋では、五行の内容をなぞる形で兵士を惨殺している。
黒幕が見せたかったのはこれなのだろうが、いったいどういう目的でこんなことを…」

「あの、たった今気が付いたんですけど」

再び、ルリがおずおずと口を開いた。

「殺されている兵士が着ている軍服は、昔の人民解放軍が着ていたものなんです。…ここで殺されているのは、中国人の兵士の魂ということになります」

「ちょっと待て、なんかつじつまが合わないぞ?」

息を飲んだ俺と対照的に、十条寺がルリの意見に反論する。

「道術の陰陽五行というのは、そもそも中国のものだろう。
それに乗っ取って中国人が殺されているってのは、はっきり言って変だぞ。
そもそも、お前の考えが正しければ、殺している方は誰なんだ?
チベットまで来て中国人が殺されてるんだから、普通に考えれば殺している側はチベット人の魂なんだろうが、
彼らは宗教国家をつくるほどの熱心なチベット密教徒だ。
それが、わざわざ道術なんかを模して殺人をするとは思えんし」

「え、そ、それは…」

ルリは答えに窮した。

確かに、十条寺の推理は妥当だ。2人の考えを比較すれば、明らかに十条寺の方が説得力がある。

が、ルリの考えは今目の前の事実を元にしたものだ。

こんなとき、両方の意見が食い違う理由は限られてくる。

「…十条寺君、ルリ、2人ともそれなりの根拠を持って出した考えだ。
明らかに間違っている点はないのに結果が食い違うということは、
もしかしたら俺たちの知らない何かがまだ隠されているということかも知れない」

「…なに?」

「黒幕は、これを見せてなおまだ何か大事なことを黙ったままにしている可能性があると言ってるんだ。
あの殺戮劇はショックだったが、あれを見たから黒幕が何を言いたかったのかということはまだわかってない。
…どこまでもったいぶるつもりかは知らんが、向こうは何が何でも最後まで俺たちを付き合わせる気らしいな」

「くそっ。これ以上、何があるっていうんだ!」

十条寺は怒りに任せて拳を壁に叩きつけた。彼は、こういうもってまわったやり方に我慢できる方ではないのだろう。

「あの廊下の突き当たりにある、開けられそうになかった扉ね。もう、黒幕はあそこにいるのは疑うべくもない。
わたしたちに、あそこを開ける前に確実にこの光景を見せるためには、あの扉を開けられないようにしておけばいい。…そういう理屈ね」

ユウカの言葉に、十条寺は敏感に反応した。

「そういうことか!ならば、今度こそ何もかもを聞き出してやる!今度は開かないなどとは言わさん、開かなかったら、叩き破るまでだ!!」

「お、おい…」

「オベリスク!一緒に来い、すべてにケリをつけるぞ!」

俺が止める間もあらばこそ、十条寺はオベリスクを伴って廊下に飛び出した。

もちろん、取っ手もついてなかったため最後まで開けられなかったあの扉が目的だ。

止めても無駄だろうし、結局は俺たちもあの扉を開けなければならない。

「ちっ!オベリスク、十条寺君が扉を開けられそうになかったら、構わん、扉を叩き切れ!」

先を行く2人の背中からそう叫んだ。次いで俺たちも走り出す。

が、事態は思わぬ方向に流れていた。

部屋を出て、例の扉のある廊下の突き当たりまで、走れば数秒のことでしかないが、俺たちが追いついたとき、十条寺とオベリスクは扉のあった場所で立ち尽くしていた。

「扉が…ない…?」

呆然と呟いたのはルリだったのか、ユウカだったのか。

開けようがないため放置してあった扉が、影も形もなくなっているのだ。

扉を固定していたはずのちょうつがいすら姿を消している。

「オベリスク、お前が叩き切ったのか…?」

恐る恐る造魔のバイザーを見上げて問いただしたが、無表情に首を横に振るばかりだ。

だいいち、それなら床に扉の残骸が残っているはずだ。

十条寺が、ゆっくりとこちらを振り返った。

「部屋を飛び出して廊下の突き当りを見たとき、もうなかったんだ。
まるで、最初から壁に穴があけてあったかのように…な。
自分の目が信じられなくて壁際まで一気にやってきたが、見ての通りだ」

く…!

理由もわからず、無性に腹が立った。

向こうは、俺たちが自分の思い通りに動くのを見て楽しんでいるのだ。

必要以上のことはしなくていい、できないようにしておいて、時期が来たら次の道をつけてやる。

犬の通らせたい道にエサをところどころ撒いておいて、
エサを捜して歩き回るうちにどんどん罠まで誘導されてきて最後に上から鉄格子が降りてくる、
昔よくあったマンガと同じだ。

ふざけるな。友好的な態度やら何やら見せ付けておいたところで、結局は人をおもちゃにしているだけではないか!!

そう考えて、怒りに任せて壁の穴に身を躍らせようとしたときだった。

『ようこそ、同朋よ。お前たちが見たあの殺戮は、我等の受けた怒り、理不尽、悲しみの記憶なのだ。
我が元に来られよ。今こそお前たちの疑問に、全て答えよう…』

そう、あいつの声が聞こえてきた。

黒幕だ。

「いくぞみんな!」

俺はそう言って、やつの待つ壁の向こうへ駆け出した。

俺と並ぶようにして、ユウカが走る。

十条寺とオベリスクが、俺たちの頭上を飛び越えて先頭に立った。後ろから、ルリも追いついてくる。

と、ユウカが俺の耳元でそっと囁いてきた。いつもに増して真剣な口調だ。

「左京、ここまできて命を粗末にするな。相手はまだ敵と決まったわけではないが、
あのゴージャス男を倒した後のやり取りからすれば戦闘になる可能性がきわめて高い。
お前に死なれたら、私は…」

そこまで言って、彼女は口を閉ざした。

何やら不吉なものでも感じるというのか、こいつは?

…だが、確かに今の俺は右脚を痛めたままの状態だ。それを心配しているのだろうか。

「…安心しろ」

俺はそう答えて、彼女の肩に手を置いた。

別に深い意味があったわけではない。

とりあえずそれで平常心を取り戻してくれれば、と思っただけだ。

と、彼女はゴージャス男を倒してから時折見せるようになった、心からの笑顔になった。

「信じてるぞ」

彼女はそう言って、自分の肩に置かれた手をそっと握った。そして、険しい表情になって前方を睨む。俺も慌てて気持ちを切り替えた。

壁の向こうは、直径15メートルあまりの円形の広間だった。壁にいくつか燭台が灯っているが、天井が非常に高く、上からの反射がないため、室内がかなり暗い。

広間の中央に、高さ1メートルほどの台座がある。その上に約2メートルほどの岩が乗っているが、ここが聖廟というからには、そいつの正体は決まっている。

棺だ。

たぶん、あの岩の中をくり抜いて箱状にし、遺体を入れて祀ってあるのだろう。

そして、その手前に、こちらに背を向けて瞑想している者がいた。

腰布一枚の格好で座禅を組んでいて、やせ細って骨と皮だけの手足、
あちこちしみだらけの皮膚、頭髪1本ない頭など、影しか見えなかったときとかなり印象は違っているが、
全身から放たれる強烈な真紅のオーラは間違えるはずもない。

いや、ひとつだけ違っていた。

真紅のオーラが、ゴージャス男の館で感じたものがお遊びに思えるほど強烈なのだ。

あのときでさえ、ゴージャス男を手にかけ、ミユキをあわや死に至らせるところだったというのに。

「お前が、ゴージャス男を…そして、俺たちの仲間を…」

やっとのことで、それだけを呟いた。

そいつは、俺の声を聞くと、ゆっくりとこちらを向いた。その顔を見た俺たちは、思わず後ずさってしまった。

眼球を失い、眼窩がまともにのぞいている両目。歯どころか、歯茎すらなく、骨がちらちら見える口。

顔自体も、皺という皺でくちゃくちゃになり、ほとんど表情が読み取れない。

こいつは、本当に生きているのか!?

全員がそんな思いに捕らわれていると、黒幕はにいっと口元を不気味に歪めて笑った。

あんな肉体では喋ることもままならないのだろう、やつの精神波が直接頭の中に響いてくる。

『ようこそ、日本からの旅人よ。私は、このチベットを守護するもの、ダライ・ラマ13世だ』


つづく