37章 真相(2)

…にわかには、否、まるで信じることができなかった。
王大人飯店で読んだパンフレットには、ダライ・ラマ14世がチベットから亡命したのが今から約50
年前とあった。
チベット密教の指導者、ダライ・ラマは、前任者が死んだときに初めて何人かの候補者の中から新た
なダライ・ラマを選出する仕組みだったはずだ。
つまり、ダライ・ラマ14世がいたということは、13世は死亡が確認されていなければならないのだ。
ましてや、14世ももう老衰で死んでいるはずなのに、前任者の13世が俺たちの目の前で生きている
などという話があっていいのか!?
…百歩譲って、こいつがチベット密教の秘術とやらで、異常に長い寿命を得ていたとしよう。
だが、そうなると死んだダライ・ラマの魂が転生した候補者を探すという、後継者選任の儀式が成り
立たなくなる。
死んでない人間の魂が他の人に転生するはずがなく、チベット密教の教義そのものが崩壊する。指導
者が教義を破るような宗教が、まともなものであるわけがない!
『…フフフ。お前たちのリーダーは、我の存在をまるで認めてないな。だが我は今ここにいる。そし
て我の後継者も我が民を導くに相応しいダライ・ラマだ。どちらも紛れもないダライ・ラマだ。己が眼
前の事実を受け入れるのも、上に立つ者の資質のひとつではないのかね?』
俺の燃えるような憤怒の眼光を、やつは禅問答のような調子で受け流した。
「…真実はひとつではない、とでも言うつもりか。まあいい。貴様の正体や後継者問題に文句があっ
てここまで来たわけじゃないからな」
『わかっておるわ。お前たちがここに来た理由、我がここまで招いた理由、すべて話そう。あの殺戮
を見たお前たちならば、我が悲しみをわかってくれるであろうからな…』
そこでダライ・ラマ13世は、一旦言葉を切った。
『ここが今、中国人どもの占領下に置かれていることは知っているな?あの忌々しい連中がこの地を
踏み荒らしたのは、1度や2度ではない。我が即位していた時にもやつらはやってきて、この地を好き
放題荒らしてまわった』
「…」
『許すことは到底できんかった。逃げ惑う我が民を狩りでもするような感覚で殺してまわり、男たち
は射撃訓練の的にされ、女子供はことごとく手篭めにされ…。我も、一時は国外に逃れて、この地を
取り戻す機を窺うという屈辱を味わわされた』
やつはここまで嘘は言ってないようだ。パンフレットにも中国のチベット侵攻は何回もあったと書か
れていたし、攻め込んだ側の暴虐ぶりは別段珍しいことではない。
『我は誓った。民がこんな思いをしないで済むよう、チベットを独立させると。実際、一度はあやつ
らをこの地から追い出し、我が民のための国を建てたのだ。国際社会の仲間入りを果たそうと、国連
という組織にまで出向いたこともあったのだ。だが…それが認められることはなかった。それもこれ
も、すべてあの思い上がった中国人どものせいなのだ!!』
にわかにダライ・ラマ13世の鬼気が膨れ上がった。その凄まじさに、思わず顔をそむける。
『知っておるか?やつらは、自分たちこそ世界で最も優秀な民族だ、などと自惚れているのだぞ。そ
れを出し抜いて我等が独立を宣言したことがよほど頭にきたのだろう、やつらは政治力、経済力、軍
備計画、ありとあらゆる汚い手段を講じて我等の独立宣言を妨害してきたのだ!おかげで我が言葉は
聞き入れられず、我がチベット民族は単なる民族的な集団として見なされるに留まった』
「…っ!」
ルリは拳を握り締め、歯を食いしばってダライ・ラマ13世の言葉に耐えている。だが、なぜ反論し
ない?こいつの話に付き合う義理は、彼女にはないはずだ。
『国家として民を護る手段を持つことを許されなかった我等に対して、中国人どもは情け容赦などか
けらほどもなかった。我が肉体も老い、我が民を護る力も衰えてきたがゆえ、後のことは他の者に委
ねるほかなかったが、我は心配でならなかった。プライドを傷つけられたとつまらんことを根に持っ
て、牙を研ぎ続けていたやつらが一体、何をしでかそうと企んでいるのか…』
どうやら、こいつは本当にチベット民族全体のことを把握していたらしい。最初は信じることなど到
底できなかったが、これはもしかすると本当にチベット密教の指導者かもしれない。
『そして、ついに恐れていたことが起きた。やつら、我々チベット民族を本気で滅ぼそうと言わんば
かりの凄まじさでこの地に攻め込んできたのだ。あの思い上がった連中は、単に我が民を殺しただけ
では飽き足らなくなっていたのだ。そのやり方たるや…ええい、思い出すのも腹立たしい!!…ここ
にお前たちを通す前に見せたであろう、陰陽五行とやらに従ったあのようなやり方で、目をそむけた
くなるような殺し方をさんざん繰り広げたのだ!』
「…どこかで聞いたことがあるな。相手の民族としての存在を消し去ろうとして、大量虐殺を繰り返
すと同時に自分たちの文化に触れることを徹底的に禁じ、風化させようというやり方に似ている」
額に眉を寄せた表情で聞いていたユウカが、ぽつりと呟いた。
『ほう、あやつらの他にもそんなことをする連中がいたとはな。だが、お前の言葉でやっと合点がい
った。中国人どもめ、我らを完全に中国に取り込むつもりでいたのだな!今ならやつらの言い放った
言葉の意味が納得できるわい。貴様らのような劣等人種など、我々が浄化してやる…などとぬかしお
ったその意味が…な』
なんと。当時の人民解放軍は、そんなことを考えて侵攻していたのか。
戦争になると、敵であっても人間だ、という常識以前の事実がどっかに追いやられ、普通の人が簡単
に狂気の沙汰に手を貸すことがあるとは言うが…。
この時ばかりは、心からこいつらのことを気の毒だと思った。
彼らの存在そのものを完全否定する敵が、物量にものを言わせて好き勝手なことをして暴れ続けてい
たのだ。その過程で繰り広げられた蛮行は、あの殺戮劇に匹敵するものであろうことは容易に想像で
きる。
その後を、十条寺が言葉を続けた。
「さしずめ、劣ったチベット民族を、優秀な我々中国民族が生まれ変わらせてやろう、ありがたく思
え!…などと考えていたってことだな。師匠がこの場にいれば、憤って1人ででも中国政府に殴り込
みをかけているところだ」
ふう、さすがは師匠と慕うだけのことはある。東鳳風破の性格をよくわかっているな。
「…だがまだ納得いかんことがある。お前がここまで来る前に5つの部屋で見せたあの殺戮劇、殺さ
れていたのはチベット人ではなくて中国人兵士の方だったぞ。これでは話が合わない」
さっき彼自身がルリに問いただした件だ。それを聞いたダライ・ラマ13世の顔が、くしゃくしゃに
歪んだ。直後のセリフから考えると、笑ったのかもしれない。
『あれは贖罪だよ。あの兵士たちは、かつては逆の立場で、あのような方法で我が民を虐殺していた
連中だ。殺された者たちの無念の声は、それは凄まじいものだったぞ。なぜ自分たちがわけもわから
ず殺されなければならないのだ、なぜあんな心も体もメチャクチャになるようなやり方で殺されなけ
ればならないのだ…と。その無念は、殺した者が同じ目に遭うまで決して晴れることはないのだ』
さらっと、とんでもないことを言うな、こいつは。
『あまたの無念を抱えた我が民の魂は、自分たちを手にかけた兵士を捜してさまよい続け、我の元に
連行してきたのだ。そしてこの非道な輩に相応しい裁きを下して欲しい、さもなくば自分たちは決し
て浮かばれることはないと訴えつづけたのだ。それに応えるため、我は自分のための聖廟の部屋を使
うことを許した。そこで情け容赦なく殺戮を繰り返した兵士どもに報復するがいい、そうすることで
お前たちは報われるだろう…と教えてやったのだ』
「…そうか、あの殺戮劇は、もともと中国人の方がやっていたことなのか」
それでやっとつじつまが合った。
チベット人が、正確にはその魂が、中国の道術で使うはずの陰陽五行をもじったやり方で中国人の兵
士を殺しているのは、かつてやられたことをやり返しているからなのだ。
この場合、殺される方も魂だけの存在だから、「殺される」という表現が適切かどうかは…
…あれ?
「ちょっと待て。話がいくつか飛躍しているぞ。まず、自分のための聖廟ってどういうことだ。信者
に自分は死んだって見せかけただけってことなのか?それに、虐殺されたチベット人の魂が中国人兵
士の魂を連行してきたと言ったが、それはつまり中国人兵士を呪い殺したことにはならないのか?だ
としたら、既に恨みは晴れているはずだろう。あと、…」
『あわてるな。ひとつずつ、順に答えていこう。その方が、お前の仲間も納得するだろう?』
矢継ぎ早に質問しようとした俺を、ダライ・ラマ13世はやんわりと抑えた。おまけに、十条寺にま
でこんなことを言われようとは。
「そうだな。御手洗、落ち着けよ」
…分別面しやがって、このヤローは。一旦戦闘になったら、誰よりもカッカして暴れまわるくせして。
これでは、俺がそそっかしいみたいじゃないかよ。
俺が内心で地団太を踏んでいるなどとは夢にも思わずに、ダライ・ラマ13世は続ける。
『お前は、我が生きているのに、墓である聖廟があるのはおかしいと言いたいのだろう。…そもそも
は、この寺院は聖地を守護するための寺院として機能していたのだ。…この先の霊脈は非常に強く、
修行の場として、また巡礼の場としても非常に重要だったのだ』
霊脈、か。多分、ルリが地脈と言ったものと同じだろう。道術では地脈と言い、チベット密教では霊
脈というわけだ。
『だが、度重なる中国人どもの襲撃によって、この地を護っていた者たちは全滅してしまった。折り
しも、我は老齢によって密教の指導者を続けることが難しくなった頃だった。だが我が民の未来が心
配で、死を迎える前に後継者を決めておきたかった。そこで、数名の協力者と相談して、我が死んだ
ことにして、その証拠としてこの寺院を我が聖廟としたのだ。…あきらかに教えには反するが、我が
民を狙っているのは人の心を捨てた悪鬼どもだ。他に手段はなかったのだ』
…この寺院のちぐはぐな状況は、苦肉の策のなれの果てってわけか。
『それと、お前が指摘したように、ここで贖罪を受けている兵士どもの魂は、我が民が呪い殺したも
のだ。…だが、やつらが1度や2度死んだくらいで、民たちの恨みが晴れるとでも思うか?あの兵士
たちがやらかした悪行、その全てが清算されるまで、我が民の怨念は兵士どもの魂を捉えて離すこと
などない』
「なんだって…。じゃあ、お前の民を30人殺した兵士がいたとすれば、そいつは30回もあんな殺
され方をされなければならないのか?」
その言葉を聞いた途端、ダライ・ラマ13世は一気に怒声を張り上げた。
『30人だと!?たった、たった30人程度で満足した兵士などいたものか!!あやつらが5人もいれ
ば、村のひとつやふたつは一晩のうちに全滅していたのだぞ!どんなに少なくとも、やつら兵士1人
当たり500人はその手にかけておるわっ!!』
さして広くもない部屋の中だが、それでも耳にぐわんぐわんと響くほどの大声だ。思わず肩をすくめ
た俺の横で、ユウカがそっと囁いた。
「500人はいくらなんでも大げさだな。あんなに手の込んだ殺害方法では、一晩で殺せる人数も知れ
ている。戦争なんだから30人は確かに少ないが、多くても100人ということはあるまい」
なるほどな。
…だが、ダライ・ラマ13世が怒り狂うほどの犠牲者であることに変わりはない。ここは大勢のチベ
ット人が惨殺された、という点だけを拾うことにしておこう。
口には出さずにそんなことを考えていると、相手の鼻息も次第に静かになってきた。どうやら、いっ
ときの怒りは収まったらしい。
『…少し取り乱してしまったな、話を戻そう。お前が言うように、兵士どもの魂は自分たちが殺した
人数分だけ、ああやって死ななければならんのだ。それまでは、無念の死を遂げた我が民の怨念が、
休む間もなく攻め立てる。まあ、自業自得というやつだ。その言葉は、日本にもあるだろう』
そう言ってヤツは、俺たちの背後を見ていた。汚いものを蔑むような目つきで。その視線の先にある
のは、今なお魂の殺戮劇が繰り広げられているあの5つの部屋だ。
俺は、一瞬であったが口を開く気になれなかった。
因果応報とかそういう概念は確かに仏教から来たものだ。それは起源を同じくするチベット密教にも
通ずるものがあるということなのだろう。
だが、同時に仏教には恩赦という考え方もあるはずだ。当時の兵士たちの度を越えた殺戮だって、さ
っき述べたように戦争という特殊な状況の中で繰り広げられていたはずだ。
それを正当化するつもりなどないが、狂気に捕らわれていなければ死ぬほかないという状況で犯され
た罪を、そっくりそのまま償わせるというのはいき過ぎではないのか?
ややあって、十条寺が口を開いた。
「ずいぶんと問題のあるツケの払わせ方…という気もするが、それには触れるまい。本当に、兵士た
ちの犯した行為を清算するまでというならな」
『無論だ。我が民の恨みを受け終わった兵士どもの魂は、すべて開放されている。まあ、そんな幸運
な者など、この半世紀あまりでまだ10人と出てないし、自分たちの犯した業の深さに、魂ごと引き裂
かれた軟弱者もいたがな』
そう言ってダライ・ラマ13世はカカカと笑った。
どこかカチンとくる笑い方だった。いくら自分たちをひどい目に遭わせた相手とはいえ、こんな風に
他人の苦しむ姿を見てこれほど喜べるものなのか?
その思いはルリも同じだったようだ。次のセリフには、抑えた怒りが語気に満ちていた。
「そんな無茶な恨みの晴らし方をさせていたの。道理で地脈が遮られるほど、建物の中に怨念が渦巻
いているわけね」
ダライ・ラマ13世の声色が、地脈と聞いた途端に変わった。
『地脈…地脈だと!?霊脈のことをその名で呼ぶのは、あの兵士どもだけだった!』
落ち窪んだ眼窩の奥の、俺たちを見る目つきが、急に険しくなった。
『女、お前まさか中国人なのか!中国人なんぞをこの場まで連れてきたということは、貴様ら…まさ
か中国人どもに本気で肩入れするつもりなのかっ!?』
あ、そっか。
こいつは、ルリだけは中国人だって知らなかったんだな。しかし、ここでそんなことで機嫌を損ねて
戦いにでもなったら、調査任務としては台無しになる。ここはお茶を濁すか。
「別に中国人じゃなくったって、風水なんかがきっかけで中国に興味を持つ日本人は今日び珍しくも
ないぜ。専門用語だけで人種を判断するのは、情報社会と化した現代では早とちりだよ」
俺の返答に対してダライ・ラマ13世が何か言うより早く、ルリは1歩進み出た。
「いいわ御手洗さん、誤魔化さなくても。わたし、中国人でありながら中国のことは嫌いだけど、今
だけは中国人としてあいつと話をしたい。…ずっと考えてきたの、あのゴージャス男が太平天国の再
興を目指していたと聞いた父は、様子がおかしくなった。わたし、実は、あの晩父からこの事件の裏
にあった事実をある程度聞かされたの。その上で、父は中国人としてどう思うのか、よく考えて欲し
いって言ってた。結局、それでもわたしが中国人嫌いなことに変わりはないけど、おかげで逆に今回
の事件を冷静に見ることができたわ。…ダライ・ラマ13世、あなたの怒りはもっともだけど、いき過
ぎよ。とっくに死んでいる兵士たちの魂を苦しめて、何も知らない一般人を巻き添えにしかねないよ
うな方法を取って。もっと方法を選ばなくては、何も解決しないのではなくて!?」
『…』
最後には半ば叫ぶように言い切って、右手の人差し指をびしりと突きつける。
正直、見直したぜ、彼女を。たとえ一瞬であれ、あのダライ・ラマ13世が気圧されたのだから。つ
まり、彼女はそれほどの覚悟を持って、このチベットに乗り込んだのだ。
が、ダライ・ラマ13世は、思いのほか早く立ち直った。
『一般人を巻き添えに、だと?…あの洪秀全の末裔を手駒に使って、この世の王になれと我がそその
かしたことか。お前たちは、あの男をゴージャス男と呼んでいたようだったがな』
そう言ったやつの声には、もう動揺はかけらほども感じられない。
『中国人どもに対する報復には、あのやり方が最も相応しいと思ったからだよ。清の時代に起きた、
太平天国の動乱のことは、我も歴史にて聞き及んでいる。…まあ、見事なまでに自己中心的な平等思
想よな。人間は皆同じだなどと謳っておいて、その実、己が優れていると称する、1人の支配者が他の
者をすべて一律に操るのがこの世の平和だ、などとはな。いかにも自分こそ最も優れているという考
えを持っている、中国人が思いつきそうな思想だと思わんか?そんな、他の民族なら見向きもしない
ような思想にまじめに取り組んで、一時は国家を成したほどの愚か者どもが、今度はその末裔が全く
同じ思想を掲げることによって滅ぼされる。…ふっふっふ、我が密教の根底にある、因果応報という
思想に、これほど相応しい滅亡の道も、他にあるまい』
自ら描いた復讐のシナリオに酔いしれているダライ・ラマ13世に、俺は問いかけた。
「今、ゴージャス男のことを洪秀全の末裔だ、って言ったな?じゃあ、あの男が語っていた、祖先の
記憶だのこの世の王となる運命だのと言っていたのは、あれは…」
『ふはははは、我が秘術の偉大さを思い知るがいい!あれは、我があの男の魂に刻まれている前世の
記憶を思い出させてやった結果よ!』
それを聞いた、その場にいた全員が絶句した。
「なに!前世の…記憶!?じゃあ、あの男は本当に洪秀全の子孫だったっていうのか!!」
『そういうことだ。前世の記憶というものは、たとえ本人が経験したことでなくとも、その人間の持
つ記憶には違いないのだ。それを思い出すという感覚は、自分が昔経験したことを思い出すのと何ら
変わるものではない。疑似体験や臨場感などという陳腐な言葉では言い表せない、本人の体験として
蘇るものなのだ。あの男も、祖先と同じ戦い、栄華、そして没落を体験したというわけだ』
「…なんということだ」
『あの男と出会ったのは、本当に単なる偶然だったのだがな』
そのときのことを思い出しているのか、ダライ・ラマ13世は俺たちから視線をはずし、中空を仰ぎ
見た。
『あのとき我は、中国人どもに報復するだけの力を蓄えるべく苦行に励んでいた。そこで研ぎ澄まし
た感覚が、非常に強い霊力の源を感じ取ったのだ。それこそ、世界に満ちている力をそこに詰め込ん
だような…。それに興味を持った我は、幽体離脱の秘術で魂だけの存在になり、その地に飛んだ。そ
こにあったのは、中国の山奥で気ままに暮らしている男の、申し訳程度に建てられたねぐらだった。
強大な力はその床下から発せられていた。そこを掘り起こしてみると、1冊の本が出てきたのだ』
俺の頭に、はっと思い当たるものがあった。
「まさか、ゴージャス男が持っていた白澤図か!?」
その言葉に、全員がはっとしたように俺の顔を見た。
『そういうことだ、なかなか察しがいいな。…その気になれば、世界を手に入れられるほどの力を秘
めた本が、なぜ秘境と呼んでもさしつかえないほどの山奥に埋もれていたのか、我も疑問に思った。
そこで、あの男の魂の記憶を読み取ってみたところ、そやつの思いがけぬ前世が判明したというわけ
だ。…おおかた、あの洪秀全という男が、栄華に酔い痴れていた頃に集めた古書であったのやもしれ
んな。それを自分の子供にでも託したのだろう。人間、みな平等だなどと言ってみたところで、支配
者なぞ、どいつもこいつも…』
ダライ・ラマ13世がそこまで言ったとき、ルリが思い出したように水を差した。
「待って、やっぱり変よ。ゴージャス男自身もあなたも、当たり前のように洪秀全の子孫だって言っ
てるけど、彼の親族は子供も含めて皆殺しにあっているはずよ」
それに対するダライ・ラマ13世の態度は、見るからに不遜だった。彼女が中国人だとわかった途端、
この変わりようだ。
『ふん、浅はかな女だ。そこを説明しようとしたときに、わざわざ話の腰を折るのだからな。だから
中国人という輩は。…一国の支配階層にまでのし上がったら、お前ら中国人はどうすると思う?全て
の財産を皆で分け合うという主張を掲げた洪秀全でさえ、あれほどの宝を隠し持っていたことでも明
らかだろう、贅沢、酒池肉林、放蕩の限りを尽くすのだよ!!当然、姦淫にふけった結果として、歴
史の表舞台から抹消された隠し子もいたはずだ。女、お前の学んだ自国の歴史は、そういう都合の悪
いことを隠してある、歪んだ歴史なのだよ!』
「…」
ルリには言い返す言葉もないだろう。今まで俺たちが見てきた事実は、全てこいつの言葉を証明する
ものだからだ。
『ここまで言えば、あとは明白であろう。我はあの男に中国を壊滅させる計画を思いつき、実行に移
したのだ。あの男の前で、我は神の使途だと信じ込ませたあと、前世を思い出させ、生まれ変わった
この時代でこそお前は王になるのだと言い含めたら、あっさりとその気になりおった。あとは、あの
本の使い方を教えて、やつの身を守ってやる結界を張ってやれば、見ているだけで計画は着実に進ん
でいたのだ。…それを潰したのがお前たちだよ』
これは、思ったより途方もない話だ。
世界征服妄想に捕らわれた愚か者の暴走などという単純なものではないとは思っていたが、こんな複
雑な裏事情があったとは。
一方で、目障りな障害が消えたと判断したゴージャス男は、いきなり中国政府の中枢に乗り込んだ。
それで国を乗っ取れると思っていたあたりはヤツの浅はかさに尽きるが、最終的な目標としては妥当
だ。こっちの方はダライ・ラマ13世の手引きと見ていいだろう。
仮にも宗教国家を樹立しようと考えていたのだから、世界各国の事情にもある程度精通していなくて
はならないからだ。
だが、最後の一言は気になった。ヤツめ、ご丁寧にも俺たちが計画を阻止したことを強調したのだか
ら、何か企んでるに決まっている。
「…で、俺たちをここまで呼び寄せた本当の目的は何だ?あんな殺戮劇を見せたり、過去の愚痴を聞
かせるためだけじゃないだろう?」
『我に力を貸して欲しいのだ。中国人どもがいかに傲慢、かつ危険な存在であるかは、お前たちもそ
の目で見た通りだ。あんな危険な民族にこれ以上好き勝手なことをさせていては、この世界はいずれ
取り返しのつかないことになる。そうなる前に、中国人という巨悪を根絶やしにしなければ、いずれ
世界中の国々が全て我らと同じ目に遭うことになろう』
そこで一息ついて、ダライ・ラマ13世はルリに顔を向けた。
『そこの女も一緒にな』
この一言に絶句したルリに代わって、十条寺が猛烈に反発した。
「ばかな考えは捨てろ!貴様は仲間が虐殺された怒りにまかせて、自分勝手な正義を押し通そうとし
ているだけだ。そんなことを本当にやってしまったら、お前はお前自身が憎んでいる中国人と何ら変
わらないということになってしまうんだぞ!」
その通りだ。こんな血で血を洗うような報復は、どこかで食い止めなくてはならない。
それに、万が一にも中国が本当に滅ぼされるようなことにでもなったら、世界情勢が大きく変動して
しまう。
広大なこの地が無政府状態になろうものなら、世界中の列強が豊富な土地と資源、それに労働力を求
めて、それこそよだれを垂らして侵攻してくるだろう。そんな勢力が激突すれば、世界大戦勃発の恐
れすらありうる。
いや、それ以前にいくらダライ・ラマ13世の力が偉大であろうと、実質1人で1つの国にケンカを
売るのは、無謀としか言いようがない。
ゴージャス男にやらせたように悪魔の力を借りたところで、国家が相手では所詮焼け石に水だ。それ
どころか、中国政府に自分の正体を知られようものなら、クーデター呼ばわりされてチベット民族の
方が根絶やしにされるかもしれない。
やめさせなければ。何とかして、こいつを説得するんだ。
「やめるんだ、ダライ・ラマ13世。お前の計画は全部が自分の思い通りにいくことを前提にしてい
るだろう。そんなに都合のいい話があるものか。それに、もう50年以上も昔の殺戮を、何も知らない
一般人に叩きつけて責任を取れって叫んだところで、どうなるっていうんだ。こんな復讐は、何も生
み出しはしないんだ!!」
俺の言葉に、ダライ・ラマ13世は声を凄ませた。今度ははっきりと敵意をあらわにしている。
『何だと…!貴様に、我の何がわかるというのだ!!』
くそ、説得に失敗したのか?
内心舌打ちをしていると、十条寺が予想もしなかった言葉で俺をなじった。
「御手洗、何を言い出すんだ!?今のは、身内を殺されたことのない人間のセリフだぞ!」
「な…」
…心外だった。まさか仲間からそんな風に言われるとは。
第一、俺は両親を失ったからこそこうして悪魔召喚師などという生業についているのに、どうして身
内を失ったことがないような言われ方をしなければならないんだ!
「冗談じゃない。俺だって両親を殺されて…」
…あれ?
「こ、殺されて…あ、あ…?」
なぜ、その先が続けられないんだ?
「…御手洗?」
十条寺も、俺の様子がおかしいのに気が付いた。
だが、それ以上にダライ・ラマ13世が俺の様子に興味を持ったようだ。
『…ほう?どうやら、お前たちのリーダーは両親について何か心の傷を抱えているようだな。どれ、
我が探ってやろうではないか』
無慈悲な表情で笑うと、その体を取り巻くオーラが俺の体に伸びてきた。それとともに、俺の視界が
ぼやける。
奴は他人の記憶はおろか、その前世まで覗くことができる。まさか、やつは俺の記憶を暴こうという
のか!!
本能的な恐怖が脳天を串刺しにした。
「…!!」
必死に叫んだつもりだったが、もはや声も出せない。
「左京!!」
ユウカの絶叫を最後に、俺の意識は自分の知らない過去に飛ばされた。

38章 忘れられた傷

周りは、ほとんど紅蓮の炎に包まれていた。
目の前では、1人の女性が大柄な男に組み伏せられ、男の手の中で鈍い光を放つナイフが今にも女性
の喉を切り裂こうとしている。
この光景は…俺がサイコ・ブリザードを放つときに必ず垣間見る記憶だ。
かつて自分が経験した内容らしいとは、心理カウンセリングを受けたとき説明されたが、その前後が
はっきりしないため、治療しようがないということだった。
自分の記憶でありながら、まるでテレビの画面で見ているかのように客観的に眺めていることに戸惑
いを感じていると、組み伏せられた女性がこちらを向いた。
…ここで彼女が何か言うのだが、その内容はどうしてもはっきりしない。せめて何を言っているかわ
かれば、どういう記憶なのかわかるのにな…
と思った瞬間だった。
その女性が声を発したのだ。
「と、トオル…早く、逃げて!」
それがきっかけだった。
今まで思い出せなかったことが、そして思い出したくもなかったことが、堰を切ったようにあふれ出
てきたのだ。
心の奥に封じ込めてきたおびただしい記憶の奔流に、脳の回路が追いつかない。
「う、あ、あ…あああああ!!」
頭を抱えて獣のような絶叫をあげ続ける、だが倒れることができない。
当時の心では耐え切れずに思い出さずにいたこと、無理やり忘れようとしていたことが、一気に俺と
いう存在を押し潰しにかかっていた。
あれは、俺が9歳のことだった。
周りが炎に包まれていたのは、家が放火されたからだ。
組み伏せられていた女性は、母さんだ。
ナイフで喉をかき切ろうとしていた男は、父さんだ。
家に放火したのも、父さんだ。
なぜそんなことになったのかはわからないが、厳しかったけど優しくもあった父さんの目がこのとき
は赤黒く染まり、口から牙がのぞいていたことは覚えてる。
トオルというのは、俺の本当の名前だ。
俺を殺そうとした父さんから庇ったせいで、今度は母さんが父さんに殺されそうになった。
俺は恐怖にすくみあがって、周りが火に包まれているというのに、母さんが今にも殺されそうだとい
うのに、動けなかった。
そして、そして…自分が殺されそうだというのに、俺に向かって逃げろと言った母さんの声を聞いた
とき、俺の中で何かが吹っ飛んだ。
それが、…
「ぐふぉおっ!!」
あまりの苦痛に耐え切れず、大量の胃液が逆流してきた。
「左京!左京!!しっかりしろ、左京っ!!」
誰かの声とともに、柔らかい感触が俺を包み込む。それで、俺は束の間、過去の束縛から開放された。
見れば、ユウカが俺を抱きしめている。嘔吐したせいで俺の服は汚れきっているというのに、それを
気にもせずに。
その目には、涙があふれていた。
が、俺の混濁しきった意識は、それに応えてやれるほど回復してはいなかった。
「そうだ、俺は…俺は、両親を殺されてなんか…いない…母さんを、きれいで、大好きな母さんを殺
されるくらいなら、…ぐっ!!」
再び、ダライ・ラマ13世のオーラが、ユウカごと俺を包み込む。
『無駄なあがきだ。我の術は、心に直接作用する。抵抗できるものではない』
その声が終わったかどうか、確認できないままに、俺はまたもや先ほどの悪夢の中に放り込まれた。
「まさか、過去の記憶を無理やり…!」
それが誰の声だったのか、何を言いたかったのかまで、気にする余裕はなかった。

母さんは俺に逃げろと言った直後、氷漬けになった。
その表情は、それまでの苦しそうなものから、驚愕のそれに変わっている。
もう光を灯すことのなくなった、その瞳に俺を映したまま。
これでいい。
大好きな母さんが、血にまみれて死ぬことはない。
いつまでもきれいなままでいられる。
父さんはそれを見て、一瞬だけ元に戻った。
「トオル…」
そう言った気がする。
その氷漬けが自分のしたことだと、俺はそのときになってやっと気が付いた。
母さんを汚されるのはいやだ、と全身の力を込めて念じた。
そうしたら、俺は母さんを氷漬けにしてしまったのだ。
そのとき、また父さんの目はおかしくなって、母さんと一緒に凍った自分の服をばりばりと引き剥が
しながら、俺にナイフを振り下ろそうとした。
その父さんも、その場で氷漬けになった。
なぜか、その顔は穏やかだった。
父さんの声を聞いたような気までした。
「ありがとう、私は妻を殺してしまうところだった」って…。
2人の周りでは灼熱の炎が猛り狂っているというのに、その氷は溶けることがなかった。
当たり前だ。俺がいる限り、そんなことはさせない。
俺はふらふらと、燃え落ちそうな家から外に出た。
邪魔なドアや柱は、凍らせて砕いて。
そこで家の中に飛び込んできた男たちに助け出された。
あれは、消防士だったのだろう。
完全に焼け落ちた家から出てきた、2人の凍死体を見て、大人たちはしきりに首をかしげていた。
同時に俺も、彼らから質問責めにあった。
ろくに答えることはできなかった。
頭の中から脳がすっぽり抜け落ちたような気がして、何をしても誰かが話しかけているのを聞いてい
ても、まるでわからなかった。
そのあとのことは覚えてない。
次に目が覚めたときは、病院のベッドの上だった。
医者から4日も昏睡していたとか説明を聞いているうちに、だんだん思い出していった。
そして、俺は初めて自分のしてしまったことを理解した。理解してしまった。
俺は、…俺は!
「うわああああ!!」
苦しい!
頭が、頭が破裂する!死んでしまいそうだ!!
いや…
死にそうなんじゃない、死にたいんだ!
俺は、両親を殺してしまったんだ!
消防士に助け出されたときも、父さんと母さんはまだ紅蓮の炎の中で氷に閉ざされていた。
大人たちも、俺のことなんてまるで疑わなかった。
超能力で氷漬けにされて殺されたなんて、誰が思いつくものか。
しかし、俺自身の記憶はごまかしようがない。
俺は、取り返しのつかないことをしてしまった。
もう、この世から消えてしまいたい。
母さんと父さんのところに行って、謝らなければ。
そうすれば、また母さんたちに甘えられる…!
そして、今度はあの世でまた3人で…
「左京、お願い、目を醒ましてっ!!」
バシッ!
「!!」
悲鳴のような絶叫とそれに続く頬の痛みが、俺の心を現実に引き戻した。
「いたた…ユウカ?」
ようやく焦点をあわすことができた俺の目の前には、大粒の涙をぽろぽろ流し、不安に引きつったユ
ウカの顔があった。
俺が自分を見ていることに気が付くと、その顔が子供のような泣きべそに変わった。
「よかった…よかったあ!本当に、ほんとに心配したんだからー!!」
涙声でそれだけを言うと、俺の首に抱きついて大声で泣き出した。
「お、おいおい…」
心配してくれるのはうれしいが、みんな見てる前で抱きついて泣き出すとは…。
周囲の視線を感じて、顔が熱くなってくるのが自分でもわかる。
「みんな見て、…見て…るれらら〜」
ユウカをたしなめようとして声をかけたが、舌がうまく回らない。いや、それどころか、身体のどこ
にも力が入らない。立ってることすらままならない。
「…ひぐっ!?」
挙句の果てに、変な悲鳴をあげてその場にへたりこんでしまった。
「さ、左京!?」
ユウカが驚いて、慌てて飛び退いた。自分が何かまずいことをしでかしたのだろうかと危惧したのだ
ろう。
だが、座り込んでしまう直前、誰かが俺の背中に手を添えた。振り返って、驚いた。
俺の背中を支えていたのは、オベリスクだったのだ。
喋れないため、今まで俺たちの傍で警戒態勢を取ったままだったのが、介添えの手を差し伸べたのだ。
どういうことだ、この造魔には、戦闘以外のことは、命令されなければできないはずではなかったの
か。自分から主を助けるなんてことまでできたのか、こいつは…。
「ユウカ、下がれ」
そこに、十条寺とルリがユウカを押しのけるようにして俺の元にやってきた。
「こ、これはどうしたの!?左京は、左京は一体どうなってしまったの!!」
ユウカは、すっかり錯乱してしまっているようだ。十条寺の怒声が彼女に降りかかる。
「落ち着け!御手洗は、極度の精神疲労に陥っているだけだ。やつの術で、思い出すつもりのない過
去を無理やりほじくり返されたから、その拒絶反応が激しかったんだろう。あれだけ絶叫していたん
だ、体力的にもかなり消耗しているにちがいない。…ルリ、手伝ってくれ!」
「はい!」
二人は顔を見合わせて頷くと、俺の前後に廻った。後ろから十条寺が俺の腕と腰を捻りあげる。
「御手洗、少し我慢しろ。ここと、…ここの間接を締めれば、この手の弛緩はすぐに、取れるから、
…っと!」
言いながら容赦なく俺にプロレスの関節技のような体勢を取らせていく。が、全身の力が抜けきって
しまっている俺には、ほとんど痛みを感じない。
「…あああ、りゅうろうり…?」
十条寺、と呼びかけたつもりなのに、口から洩れたセリフはこの体たらくだ。
が、そうやって締め上げられていて、肩の骨がごきっと鳴った瞬間だった。
「あ、…あいたたたっ!」
いきなり体に力が戻ってきたのだ。それと同時に、全身の感覚も元に戻った。体中が、雑巾のように
絞り上げられているような痛みが駆け巡る。
「御手洗!元に戻ったか!」
間髪を入れず十条寺は関節技を解いて、俺に笑いかけた。
…ん?そういえば、こいつが東鳳風破に関わること以外で笑い顔を見せるなんて、初めてのような気
がするが。
するとそのすぐ側から、ルリが俺に水筒を差し出した。
「御手洗さん、これを飲んでください。気分が楽になります」
言われるままに俺は、ルリの手から水筒を受け取って中身を飲んだ。
酔っ払っているときみたいに、頭の中にもやがかかったような不快感がすっと消え、やっと俺は元の
状態に戻ることができた。
「ふう…!みんな、心配をかけたな。助かったよ」
ため息とともに、自然と感謝の言葉が口をついて出た。
思い出したくない過去に捕らわれるのがいかに過酷なものなのか、身をもって思い知らされた。
「大丈夫なのか、おい?」
十条寺が俺の顔を覗き込んでくる。
「ああ。…やっとわかったぜ、俺の超能力の大元が」
「…はい?」
ルリとユウカが、同時に間の抜けた返事をした。俺の言葉が唐突すぎて、理解できてないのだ。
「…」
実は、俺はまだ迷っていた。自分が犯してしまった過去の罪を離すことで、みんなの信頼が揺らぐん
じゃないだろうかと、恐れていたのだ。
しかし、言わなければ。それは、俺の父と母に対する罪滅ぼしでもある。
「俺が中国にやってきた日の戦いを見ているのは、ここにいる中では、ユウカだけか。…実は、俺は
追い詰められると、強烈極まりない吹雪を巻き起こすことができるんだ。心理カウンセラーの話では、
サイコ・ブリザードと呼ばれる超能力らしい」
「何だって?お前、そんなすごい能力を今の今まで隠してたのか!?」
十条寺が素っ頓狂な大声をあげた。半分は冗談、半分は非難といったニュアンスなのだろう。
「これを使うのは、猛烈に精神力を消耗するんだ。1歩間違えれば、廃人になりかねないほどにな。
だから、今までだって自分から使おうとしたことはないんだ。そして、使うときは、決まってある光
景が頭の中に出てきてたんだ。…燃えさかる炎の中で、女性が男性に組み伏せられてナイフで止めを
刺されようとするシーンだ。今まで思い出すこともできなかったが、俺の父と母だったんだ」
「…まさか」
俺のここまでの言動と説明から、これから話そうとする内容を察したのか、ルリが顔色を変えた。
「そこから先が見えそうになると、サイコ・ブリザードを放ってしまうんだ。…今から思えば、当時
の記憶と重なる部分があると、トラウマとして心に残っていたそれが、超能力という形で表に出てし
まっていたんだろう」
おずおずと、ユウカが尋ねてきた。
「その、お…お父さんに、お母さんを殺されたことが、なの?」
「いや。父は母を殺してなんかいない。殺そうとしたことは確かだが、その直前に母さんは死んだ」
意外な返事に、十条寺が首をかしげる。
「なに?…話が見えないんだが」
「そもそもの発端から話そう。今までの支離滅裂な言葉の断片では、何があったのかわかりにくいだ
ろうしな。…あれは、俺が9歳のことだ。突然、父がおかしくなって、家に放火した挙句、俺をナイ
フで刺し殺そうとしたことがあったんだ。今から思い返すと、あのときの父さんの目は尋常じゃなか
った。何かのきっかけで悪魔に心を乗っ取られていたのかもしれない」
「…あなた、子供心にそんな体験をしていたなんて」
「恐ろしさのあまり身動きできなくなっていた俺は、傍に誰もいなければ確実に殺されていただろう。
それを目の当たりにした母さんは、父さんと取っ組み合いをしてまで俺を庇ってくれた。が、それに
よって、今度は母さんが父さんに組み伏せられ、喉をナイフでかき切られそうになった。大人の力に
対抗できるわけがないからと、俺はそれを見ているしかなかった」
「…」
「きれいでよく気が利くと、近所の評判だった母さんは、俺にとっても自慢だった。その母さんが死
んでしまう、それも狂った父さんによって。…そう思った瞬間、俺はとんでもない決意をした。他の
人に殺されるくらいなら、俺の手で殺してしまいたい、って。そう思って母さんを見つめた瞬間、彼
女は全身を氷に閉ざされた」
「そ、それが、サイコ・ブリザードの…」
「そういうことだ。自分でもそんな力が秘められていたとは、思いもしなかったよ。…殺そうとした
相手が先に死んでしまったためか、父さんは一瞬だけ正気に戻ったみたいだった。だが、それも次の
瞬間には消え失せていた。俺は、再びナイフを振りかざしてきた父さんまでも、氷漬けにした」
「そ、そんな…」
「後は、全焼した家から外に出て終わりさ。火事の焼け跡から凍死した両親の遺体が出てきたところ
で、それが超能力の仕業だなんて誰も思いつくわけがない。原因不明の死亡事故で片がついた。…そ
う、事件にすらならなかったんだ。だけど、自分自身の記憶はごまかせるはずもない。親を殺してし
まったという狂気から心を守るためには、全てを忘れるしかなかったんだ。…ふふ、さっき十条寺が
言った通りだな。ろくに親戚付き合いもなかった俺には、他人に身内を殺された経験なんて確かにな
い。唯一の身内と呼べる両親を、俺自身が殺していたんだからな」
「やめてっ!!」
突然、ユウカが悲鳴のような声をあげた。彼女は、まだ俺の腕を抱いたままだった。耳元で怒鳴られ
て、鼓膜がじんじんする。
「もう、いい。もういいわ。それ以上自分の心を壊すようなことを言わないで。もう充分よ…」
最後の方は呟くように言って、しまいには俺の胸に顔を埋めて泣きじゃくり始めた。
「…大丈夫だ」
俺は彼女の両肩をそっと抱きしめて、顔を上げさせた。涙でぐずぐずになった顔が、俺を見つめ返す。
「俺は、やっと自分の過去と正面から向き合うことができたんだ。つらい記憶なのは間違いないが、
もうそのつらさに負けたりはしない。サイコ・ブリザードは、その記憶から逃避してきたことへの、
言わば反動だったんだろう。だけどそれも、もう使えなくなったみたいだけど。…これって、いざと
いうときの切り札を失ったことになるのかな」
そうなのだ。
仲間たちに話している間、あのときの光景を思い出さずにいられるはずがない。あの、父が母をナイ
フで刺そうとした記憶を、まじまじと思い浮かべてた。
だが、あのサイコ・ブリザードを放ちそうになる感触はなかった。
もともと自分から使おうと思って使えていたわけではなかったから、自然に出なくなった以上、もう
俺は二度と超能力は使えないに違いない。
しかし、それを聞いても誰も困った顔はしなかった。
「そんなこと、誰も思ってないわ。つらい過去と向き合うのは、とても勇気がいることだもの、その
ために失ったものがあったとしても、みんなで補えばいいじゃないの」
ルリが興奮気味にしゃべるのを、ユウカはやんわりと遮った。
「ルリ、あなたの言葉は感動的だけど、ちょっと間抜けね」
「な、なんですって!?」
「左京がサイコ・ブリザードを使ったのは、わたしがゴージャス男から中国に着いたばかりの彼を奇
襲しろと言われたときの戦いだけよ。敵であったときも含めて、わたしは彼をずっと見てきたもの、
そのくらいは覚えているわ」
にわかに色めき立つルリをよそに、俺を見つめるユウカの瞳には、揺るぎない信頼の光が満ち溢れて
いる。
…やっとわかった。
彼女が俺に寄せる感情は、悪魔が人間を誘惑する手段として使う愛や欲情といったものを超えた、信
頼だったのだ。俺は彼女を悪魔としてしか見ていなかったため、それに気がつかなかった。
ユウカは、いつの間にか悪魔人としてではなく、1人の人間として俺と接していたのか。
ならば、俺もそれに応えてやらなくては。
そう心を決めたとき、ユウカの言葉を聞いて、十条寺が大きく頷いた。
「だとすれば、御手洗は大きく成長したというわけだ。今までの戦いを通じて、いざというときの切
り札に頼らなくても窮地を乗り切れるようになったのだからな」
それを聞いて、ユウカが嬉しそうに目を輝かせた。
優しく手を握ってやると、頬を染めて握り返してくる。
みんな、俺の過去の罪を聞いても、
それにしても、十条寺もルリもいい加減、俺たちのいちゃついているようなやり取りに気が付いてい
るはずなのに何も言わないとは、見てみぬフリを決め込んでいるのか?
気を使っているつもりなのか、面白がっているだけなのか…、気付かれないように周囲の表情を伺っ
て見ると、2人とも互いの顔を見合わせてニヤニヤしてやがる。
…憎たらしいったらありゃしないぜ。
その一部始終を、ダライ・ラマ13世はじっと眺めていた。
そして、俺たちの騒ぎが一段落すると、不機嫌そうに舌打ちをした。
『興ざめなことをしてくれる。親殺しだけで済んだわけではあるまい、すべての過去をさらけ出して、
おのれの罪を洗いざらい悔い改めれば、身も心も楽になれたものを、よってたかって我の術を途中で
破ってまで…そやつの懺悔を邪魔したいのか?』
こいつ、言わせておけば…!
興味本位で人の記憶を暴いておいていながら、さも良かれと思ってやったような言い草をするとはど
ういうつもりだ!!
だが、俺がその暴言に反応する前に、ルリが猛然と食ってかかった。
「黙りなさい!あなたのしていることは、他人を苦しめて、その姿を見てせせら笑っているだけじゃ
ないの!そんなことをして、仮にも民族の指導者として恥ずかしくないの!?」
彼女の表情には、かつてないほどの怒りがあった。さっきあいつを圧倒した決意とは別の、しかしそ
れとは比べ物にならないほどの激情を隠そうともしていない。
どうやら、やつの行為は彼女の逆鱗に触れてしまったようだ。
そこに、ユウカの呟きが加わった。その肩が小刻みに震えている。
「許さない…左京を、大事な人をこんな目に遭わせて…。わたしたちは、あなたが招いたから来たの
よ?なのに、協力を拒んだからって、こんな風になぶりものにするのがあなたのやり方なの?絶対に、
許さない!!」
言い放つと、ふわっと宙に舞い上がって本来の姿に変身した。狭いこの空間では羽根の方は邪魔にな
るが、今はカギ爪に変化した両脚を武器として使うつもりなのだろう。
「…!」
ブンッ!
物言わぬ気迫とともに、オベリスクの顔面のバイザーが青から赤に変わった。戦闘体勢に入った証拠
だ。構えた両腕のレーザーブレードが、空気中の微細な埃を焼いて時折瞬く。
次に、十条寺もゆっくりと相手を見据えて立ち上がった。一見無防備に見えるその立ち居振舞いから、
凄まじい迫力を感じる。
「いいか、貴様のやり方は、人としてやってはならないことの1つだ。人として、俺は貴様を討つ!」
骨法独特の構えを取った彼に続いて、俺も銃の弾倉を銀の弾丸に入れ替えた。
「ダライ・ラマ13世。お前の怒りや憎しみは、見方を変えれば正しいのかもしれない。中国の軍隊
に侵略されたというのは、チベット民族は悪いことはしてないのに一方的に虐げられたようなものだ
からな。…だが、ネモ老人からこのオベリスクを託されたとき、俺たちはこいつの強大な力を扱うに
相応しい人間かどうか、さんざん試された。強い力を持つというのは、自分にとっても相手にとって
も危険なことだってわかってなければならないんだ。お前のその数々の秘術の力も、オベリスクと同
等か、それ以上のものだろう。なのに今のお前は、その強すぎる力を間違った方向に振りかざしてい
る。それがわかった以上、貴様を殺してでも、その凶行を止めてみせる!!」
ジャキッ!
初弾をチェンバーに装填した音に応じて、ダライ・ラマ13世が吼えた。
『できるものならやってみるが良かろう!我が民が密教の秘術に託した怒り、憎しみ、苦しみ…その
身で直に味わうがよいわぁ!!』

39章 最後の仲魔

ダライ・ラマ13世を取り巻く真紅のオーラが激しく揺れる。相手の攻撃のタイミングを読んで、十
条寺がいち早く叫んだ。
「来るぞ、はなれ…」
そこまで言うのがやっとだった。
彼はいきなり顔を引きつらせるや否や、一気に後ろに飛び退いた。ごつっという耳障りな音と共に、
たった今まで彼がいた場所の床に、深い切れ込みが入る。
「は、速い!」
ユウカの声に、戦慄が混じった。
十条寺は敵の攻撃のタイミングを完全に読んでいた。
だというのに、自分の身を守るのがやっとだったのだ。
やみくもに避けた証拠に、いつもなら敵の攻撃を避けた直後に反撃に出るあいつが、避けた後に次の
行動に移るだけの余裕がない。相手の攻撃が見えてないのだ。
「このっ!」
とにかく奴に、次の攻撃に移らせる余裕を与えてはいけない。
俺は、ろくに狙いも定めずに銃を2発撃った。牽制のためだ。
たとえ流れ弾であっても、遠距離から銃弾が一瞬で飛んでくるとなれば、向こうは攻撃の手を緩めて
でも身を守らなければならない。
ろくに防具らしい防具も身につけてないから、当たれば急所を外していても重傷は免れない。
ところが。
パキンっ!
乾いた音をたてて、2発撃った弾丸のうち命中したと思った1発は、なんと空中で砕け散った。
く、こいつは攻撃を繰り出しながらでも守りを固められるというのか!それとも、俺たちと戦いにな
るのを予測していて、結界でも張り巡らせていたのか!?
『なんと…!』
驚愕の声をあげたのは、しかしダライ・ラマ13世のほうだった。
『我の念動波についてこられるというのか!さすがと言おうかの…!!』
「なに?」
俺は、一瞬ダライ・ラマ13世が何に驚いたのか理解できなかった。
「御手洗!あいつは手ごわいぞ!」
十条寺が血相を変えて叫ぶ。
ええい、んなことは百も承知じゃい。今更何をわかりきったことを喚いてるんだ、こいつは?
だが、続けて出た言葉に、俺は開いた口が塞がらなくなった。
「奴は、あの一瞬の間に俺たち全員に攻撃を繰り出していたんだ。見ろ!」
「何だって?」
慌てて仲間たちを見回すと、ユウカは空中に舞っていたはずなのに地上で相手の出方を窺っているし、
ルリは右の手首を抑えて顔をしかめている。
「うう…」
ルリの抑えている右手から、ゆっくりと血が一筋流れ落ちる。
オベリスクですら、左手のブレードをへし折られているではないか。
ユウカが、こっちを見て叫んだ。
「十条寺の言うとおりよ。わたしは上空にいたから全部見えていた。わたしと十条寺は何とか避けら
れたけど、ルリは霊活符を取り出そうとして気付くのが遅れたし、オベリスクはあいつに斬りかかろ
うとして踏み込みすぎていたから避けきれなかったの。うまく撃ち落すことができたのは、左京、あ
なただけよ」
「ええっ!」
こ、これは思わぬ事態だ。
十条寺、ユウカにオベリスク。彼らは全員、戦闘員の中でも身のこなしの速さを武器として戦う、い
わばスピードタイプだ。
だが、ダライ・ラマ13世が彼らとほぼ同時に攻撃を繰り出したということは、身のこなしはともか
く、攻撃スピードの点においては彼らと互角ということになる。
奴が驚いたのは、俺がでたらめに撃った牽制射撃を、自分の連続攻撃に反応した反撃だと勘違いした
ためだったのだ。それだけ己の速さに自信を持っているということだろう。
そんな凄まじい秘術を、奴は俺たち全員に繰り出してきたのだ。
人間の限界をはるかに上回る反応速度を誇るオベリスクが、間合いが近すぎたばかりに避け損ねたの
だ。ルリが避けられないのも無理はない。
俺が撃った弾丸が撃ち落したのは、まったくの幸運に過ぎない。
つまり、奴は攻撃を続けている限り、身の守りを気にかける必要がないということだ。
「攻撃は最大の防御というが、まさか密教の秘術の使い手がその王道を行くとは!」
冷や汗が、俺の背筋に流れた。
そして、問題なのはダライ・ラマ13世の攻撃の性質だ。
複数の敵を一度に攻撃するときは、例えば魔法の場合だと相手の固まっている場所を狙って強力な魔
力を開放し、敵を巻き添えにするという形で攻撃するのが普通だ。
つまり、敵を個別に狙い撃ちできるわけではないので、無駄も多く、魔法をかける側の消耗も激しい。
ところが、ダライ・ラマ13世の攻撃は、今の一撃を見る限り、それには当てはまらない。
自らの肉体をまったく駆使せずに刃物のような気弾を撃ってきたし、奴自身が念動波と言った。それ
から察すると、己の強烈な思念を刃物の形にして放っているのだろう。
これが厄介なのは、俺たち全員を個別に狙い撃ちにしているため、無駄に力を使うことがないという
点だ。
休むことなく全員が攻撃に晒されるものだから、仲間との連携がまずできなくなる。それに、相手の
消耗が少ないものだから、持久戦になれば不利になる一方だ。
『数でかかってくれば、楽に勝てるなどと甘い考えを2度と持たぬよう、貴様らを鍛え直してくれよ
うぞ!!』
好き勝手なことを言いながら、ダライ・ラマ13世は攻撃の手を休めず気弾を飛ばしてくる。
鍛え直すなどと、訓練でもしているような言い方だが、飛ばしてくるのは当たりどころが悪ければ命
に関わる凶器なのだから始末に終えない。
一方こちらは全員、自分を狙ってくる攻撃を凌ぐのに精一杯だ。特に、最初の攻撃で負傷してしまっ
たルリとオベリスクは、致命傷こそ避けているものの確実にダメージが蓄積されている。
「くそっ、こんなとき…」
つい、弱音が出てしまった。
一見勝ち目のない戦いは何度も経験してきたが、それを全て突破してきたという自信はあった。それ
も、誰か1人の英雄的な活躍があったからではなく、全員で力を合わせた結果だ。
実は、ダライ・ラマ13世についても倒す方法は見つけている。
奴の弱点は、1人しかいないため、動きを封じられるとどうしようもなくなることだ。
そこを突こうと思えば、前に戦った巨大ミイラと同じようにすればいい。重傷を負うのを覚悟で誰か
があいつに組み付き、引き剥がそうともがいている間に全員で攻撃するのだ。
…そう、ミユキがいれば、迷うことなくその方法を取ったことだろう。
女子プロレスラーである彼女は、十条寺やオベリスクとは違ってスピードではなくパワーで相手をね
じ伏せるタイプだ。その鍛え上げた体も、少々のダメージで動けなくなることはない。
だが今、彼女はここにいない。それも、彼女をリタイアさせたのが他ならぬダライ・ラマ13世だと
いうのは、とんでもない皮肉だ。
しかも奴自身は、彼女のことなど始めから気にもかけていなかったはずだ。
リーダーである俺を殺そうとして、それを庇ったミユキを傷つけた結果、図らずも有利になったのだ
から、もうこれは傍から見てると笑うしかないだろう。
「せいやあああぁーっ!」
一瞬の勝機を見つけたのか、突如十条寺が奇声を放ってダライ・ラマ13世に踊りかかった。
当然のように敵の気弾が迎え撃つが、目が慣れてきたのか十条寺は紙一重で避けていく。
うまい!至近距離から放たれる気弾まで、あいつは冷静に見切っている。必殺の掌底が届く距離まで、
あと一息。
『むう、やりおる!』
十条寺の身のこなしにダライ・ラマ13世が思わず唸ったのとほぼ同時だった。
「もらったあっ!!」
自分の勝利を信じて疑わない雄叫びと共に、十条寺は渾身の力を込めて右手を敵の左胸に叩き込んだ。
が…
『…!』
ダライ・ラマ13世が、俺たちにはわからない言葉で何かを呟くと、やつの身体が妙にかすんだ。と
思うや、必殺の一撃はあっさりとやつの身体を突き抜けて空を切り、十条寺は大きく体勢を崩した。
「な、なんだと!?」
十条寺の戸惑いの声は、今の一撃が外れたことを意味している。
そして、今度はオベリスクが虚空を見上げた。
「!」
なんと、ダライ・ラマ13世は今の一瞬の間に天井近くまで移動していたのだ。それも、座禅を組ん
だ姿勢のまま宙に浮いている。密教の秘術に、空中浮遊なんてものまであったのか。
しかし、それ以前に、奴の出現した位置は非常にまずい。
ユウカの真後ろだったのだ。しかも、彼女は眼下にいたはずのダライ・ラマ13世が消えたことに気
を取られていて、まさか自分が背後を取られているとはまるで気付いてない!
「ユウカ!後ろだ!!」
俺が叫んだのと、オベリスクが跳び上がったのと、ダライ・ラマ13世の放った気弾がユウカの羽根
に命中したのが同時だった。
「きゃああっ!」
苦痛の声をあげて、ユウカはまっ逆さまに地面に落ちてきた。その姿を見た瞬間、俺は銃を投げ出し
た。
「ユウカっ!!」
もう敵に狙い撃ちにされるとか、右足が骨折しているのにとか考えていることはできなかった。彼女
が地面に激突する前に、何としても受け止めなければ、それしか頭になかった。
とにかく彼女の落下地点まで、全身全霊をこめて駆けつける。
…だめだ、あとちょっとなのに間に合わん!!こうなってはイチかバチか!
「であっ!」
頭から突っ込んだ。
無理した甲斐あってか、地面すれすれでかろうじて間に合った。大きな羽根のせいで抱えにくい彼女
の身体を無理やりに横抱きにして、地面を転がって落下の衝撃を殺していく。
ドン!
「いてぇ…」
反対側の壁まで転がって、左肩をぶつけてようやく止まった。そこで気がついたのか、ユウカは痛み
に顔をしかめながらも目を開けた。
「さ、左京…?」
「ふう、どうにか間に合った。…こっちの左肩もさいわい大したことはない、な」
少し左腕を前後左右に振ってみる。運が良かったようだ、打ち身の痛みが多少あるだけで動かしたら
痛むとか、そういう戦闘に支障が出るような怪我は負わなかった。
…しかし、状況は一向に好転してない。
『…ゆくぞ!』
ダライ・ラマ13世は、今度は宙に浮いたまま気弾を放ち始めた。同時に2つの術を駆使するのはそ
れなりに大変なのか、気弾の数や狙いにはさっきまでの激しさがなくなったが、今度はこちらの攻撃
が当てられない。
さっきのオベリスクのジャンプも届かなかったのだ。ユウカが羽根をやられて飛べなくなった上、俺
が拳銃を投げ出してしまったから、空中にいる奴には手が出せない。
「くそ、銃は…!」
ユウカを横抱きにしたままで、必死に銃を探す。
…あった。
不幸なことに、今俺たちがいる壁際の反対側だ。ユウカを助けるため、銃をその場に投げ出して部屋
を突っ切ったのだから当然か。
『…』
ダライ・ラマ13世は、座禅を組んだ状態から、むしろ淡々とした様子で攻撃を続けている。今の状
況から、自分が圧倒的に優位に立っているのは知っているはずなのに、まるで心を乱してない。
こういうところは、さすがというべきか。良くも悪くも密教の指導者だけあって、その行動には油断
というものがない。
ここで自分の優位に浸って油断してくれるような間抜けが相手ならば、何とかして突破口を見出すこ
ともできるんだろうが…。
「みんな、よく聞け!俺の足元の地面が光り出したら、すぐさま全員でこの部屋から出るんだ!そし
て俺がいいと言うまでは、何があろうと絶対にこの部屋で起きることに関わるな!中に入るのはもち
ろん、覗き込むのもダメだ!いいな!!」
覚悟を決めて、俺は十条寺、ルリ、オベリスクに向かって叫んだ。無論、俺が抱えているユウカも聞
いている。
こうなったらもうしかたがない。サイコ・ブリザードとは別の意味での、デビルサマナーとしての切
り札を出すしかないと思ったのだ。
案の定、全員がいきなり何を言い出すんだという表情でこちらを見た。しかし、俺の切羽詰った表情
を見ると一様に頷いてくれた。
うれしかった。いつの間にか、皆がここまで俺を信頼してくれていたとは。
俺はCOMPを取り出すと、猛烈な速さでキーボードを叩きながらユウカに言った。
「俺の銃が入り口のところに転がっている。それを拾って、先に外に出ていてくれ。俺もすぐに出
る!」
こくり、とユウカは頷いた。そして人間の姿に戻ると、だっと駆け出した。
そうしている間に俺はコマンドを打ち終わり、入力する。あとは、運を天に任せて…
ビビッ!
「なに!?」
COMPの出したエラー音に、俺は束の間呆然とした。
画面に表われた文字は、無情にもコマンド拒否を訴えている。
「…くそっ!この非常事態に!」
急いで事態を打破しなければ。
俺は、一旦召喚プログラムを切り替え、待機中の仲魔と対話するためのコミュニケーションウインド
ウを起動した。
そう。
最後の仲魔を召喚してダライ・ラマ13世と戦わせる。それが、俺が最後の手段として取った方法だ。
一瞬の間を置いて開いたコミュニケーションウインドウに、神々しい光をまとったシルエットが浮か
び上がる。
早くこいつを説得して召喚しないと。周囲では、相変わらず敵の気弾の雨が降り注いでいるのを、十
条寺とオベリスクがやっとのことで凌いでいるのだ。
ルリは、一足先に外に出て自らとユウカの治療をしているようだ。
再び片手でキーボードを叩き、俺は奴へのメッセージを打ち込んだ。
(なぜ召喚に応じない!?)
《私が汝のような虫けらの言いなりになる必要などない。私が従うのは、主たるあの御方のみ》
…ちっ、この堅物が!!
切り札たる最後の仲魔が誰なのか、もう見当がついた人もいるのではないだろうか。
聖書では第3位の天使とされる、プリンシパリティだ。
はっきり言って、こいつは俺の力ではジャックランタンのように支配下におけるような相手ではない。
それほどの実力を持つのだ。
…普通は、召喚師の実力を大きく上回る悪魔を仲魔にすることはできない。
人間でも、自分より実力の劣る相手にこき使われるのは面白くないものだ。それが、人間社会以上の
実力主義となる悪魔との関係となれば、尚更である。
だが今俺の持つCOMPには、そのルールを覆す存在がいる。
なぜかと疑問に思うのが当然だろう。
…それは、実はマダムにしかわからない。組織に入って、デビルサマナーとして働くことが決まった
ときにもらったのが今俺の手の中にあるCOMPなのだが、その中に初めからいたのだ。
そして彼女に、召喚師としての実力は、こいつとの会話で見極めろと言われた。
COMPをいじっていて、こいつの存在に俺が気がついたとき、マダムは俺にこう言ったのだ。
―その中にいる天使は、とてつもない実力を持つ仲魔です。召喚師としての実力が未熟なうちは、言
葉を交わすことすらできないでしょう。ですが、あなたが力を蓄えていくごとに、そのコンピュータ
を通して会話できるようになり、指示に従わせることができるようになり、やがては完全に支配下に
おくこともできるでしょう。そうなれば、あなたは世界でもトップクラスの実力を持つことになりま
す。あなたが自分の実力を知りたいと思ったら、その天使と会話をしてみなさい。その天使の方は自
覚していないでしょうが、あなたの力に相応しい反応をしてくれることでしょう。―
…というわけなのだ。
今、自分の実力が充分でないまま、こいつを召喚しようとしているのは、非常に危険なことだ。
俺の命令を聞かない相手を呼び出そうというのだから、そいつの機嫌を損ねたら、呼び出したこっち
を襲うことは充分にありうる。
が、それはつまり、俺たちでは足元にも及ばないような実力も持ち合わせているということだ。
うまくすれば、俺たちでは到底かなうはずのない敵を倒してくれるかもしれない。
…今俺たちを窮地に追い詰めている、ダライ・ラマ13世のような。
そのためにも、この場は何としてもこいつをその気にさせなければならないのだ。コミュニケーショ
ンの媒体となるキーボードを叩く指も、プレッシャーで震えてくる。
(異教徒を排除するのがお前たちの使命ではないのか?俺はその機会を与えると言ってるんだ!)
《汝とて異教徒だ。異教徒同士が潰しあっていたところで私の関わるところではない》
(報酬は出す、お前が活動するのに必要とするだけの生体マグネタイトは好きなだけ使え)
《無意味だ。貴公の持っている量では話にならん。我らの主が、現世にご降臨たまわるのに要する量
がいかほどか、知らぬわけではあるまい》
こ、このっ…!
なだめてすかして甘い顔をしていれば、好き放題足元を見やがって!
言うことを聞かせたければ、唯一神でも召喚しろだと?できっこないのをわかっていて言うのか、こ
いつは!
そのときだった。
「うがっ!!」
十条寺の悲鳴が室内に響き渡った。
ぎょっとしてそちらを振り向くと、彼は右腕を押さえてうめいている。
「十条寺君!!」
思わず叫んだ俺に、十条寺は苦しそうに声を振り絞った。
「み、御手洗、これ以上はきついぞ…まだなのか…?」
いかん、もう限界だ。
オベリスクも、全身の放熱フィンから熱気を噴き出している。オーバーヒート寸前なのだ。
…もう待てない。
こんな当てになるかどうかわからんような仲魔に、皆の運命を預けようとした俺がバカだった。
「しかたない、一旦退却だ!外の2人にも伝えてくれ!」
そう言いながら、キーボードにはこう打ち込んだ。
(もういい。そこまで言うならお前は必要ない。消去する)
打ち終わると同時に、召喚プログラムを再び起動して、プリンシパリティの消去プロセスを開始した。
《ま、待て!!わかった、言うことを聞いてやるからそれは待ってくれ!!》
待機画面に切り替わったコミュニケーションメッセージに、急に慌てたようなメッセージが表示され
たが、こっちはそんなことまで気にする余裕はない。
迷わず消去命令を実行した。
それよりほんのわずかだけ早かった。
俺の立つ地面が燐光に包まれ、それが魔方陣を形作って、中から全身に眩い光をまとい、巨大な羽根
を背中に持つ天使が現れたのは。
いうまでもなくそいつこそ、俺のCOMPに居座って知らん振りを決め込んでいたところを、消され
そうになって泡食って飛び出してきたプリンシパリティだ。
周りの光が強すぎて、表情が読み取りにくいが、憮然としていることは明らかだ。
「まったくなんという乱暴な。気に障ったからといって、見境なく相手を消滅させていくのが貴公の
やり方なのか」
「よく言う。俺たちが追い詰められているのは、COMPの中にいてもわかるはずだぞ。それも今回
に限ったことじゃない、今までにも何度もあったのに一度も手伝わずにいたくせに」
「あの程度の危機にいちいち手を出していては、貴公らの成長を阻害しているようなものだからだ。
現に、貴公らはすべて乗り越えてきたではないか」
「貴様…言わせておけば!」
やっと出てきたプリンシパリティとの口論になりかけたところに、突然気弾が飛んできた。
「む!」
手にした長槍を横に振るい、プリンシパリティは気弾を弾き飛ばした。
『新手を呼び出したか。だがお前の部下どもは全員外に出てしまったぞ。かなりの実力は持っていそ
うだが、だからといってそやつ1人に我と戦わせるつもりなのか?』
ダライ・ラマ13世だ。
こちらが反撃に出られない状況だと悟ったのか、地面に降りてきている。
「ふん、考えなしに…」
「待たれよ」
ダライ・ラマ13世の嘲りに反論しようとした俺を、プリンシパリティは制した。どうしたことか、
顔つきがやる気満々といった表情に変わっている。
「あの者、強烈ではあるが悪に染まった気を纏っている。異教徒だからではなく、悪を絶つという我
らの使命において、あの者を討つ」
おっ?これは、予想外の言葉だ。
案の定、ダライ・ラマ13世は自分のことを悪だと決め付けられたことに、気を悪くしたようだ。
『何だと…!?貴様、我が民の苦しみをろくに知りもせずに勝手なことを…!』
「この部屋での長々とした演説なら、聞いていた。召喚師の持つコンピュータの中でもそのくらいの
ことは聞くことができる。民を導く者として、我らが主も御子を遣わせたことがあるのだ。おまえは、
同じ指導者として比べるのもおこがましいほどひどい」
『…!』
天使の指摘に無言で答えたダライ・ラマ13世の、全身を取り巻くオーラが激しさを増した。同時に、
その色がどす黒いものに変わる。
それを見たプリンシパリティは、表情を険しくして俺に言った。
「召喚師よ、この場を離れよ。貴公も異教徒ではあるが、その行動はあの者に比べればはるかにまし
だ。ここで討つべき相手は誰であるか、迷うまでもない」
「よ、よし、頼んだぞ」
プリンシパリティの態度の急変ぶりについていけず、戸惑いながらもとりあえず俺は部屋の外に出た。
「御手洗さん!やっと出てきたの!?」
廊下に出た瞬間、ルリの声が出迎えた。彼女の顔を見た瞬間、やり残した重要なことを思い出す。
「ルリ、すぐにこの入り口に結界を張ってくれ!次の瞬間には、中で何が起きるかわからない!!」
「は、はい」
俺の語気に押されて、彼女は懐から慌てて呪符を取り出すと、部屋への入り口に貼った。
そのときだった。
ズオオオン!!
地面が傾いたのかと思うような地響きがした。中で戦闘が開始されたのだ。
「うわっ!?こ、これは!」
十条寺の驚いた声が聞こえた。改めて周囲を見れば、全員が揃っていた。
俺が出てくるのを、めいめいの傷の治療をしながら待っていてくれたのだ。
ユウカとルリは声こそ上げなかったものの、俺が部屋の中で何をしてきたのかはやはり知らない。
ここで黙っていては、いたずらに不安を煽るだけだ。
「部屋の中で、仲魔とダライ・ラマ13世の戦闘が始まったんだろう。…このCOMPには、隠し玉と
いってもいい、俺の今の実力では制御できない仲魔が入っていた。さっき全員に外に出るように言っ
たのは、そいつを召喚してダライ・ラマ13世と戦わせるためだったんだ。俺の言うことを聞かないか
ら、皆を襲わないとも限らない、しかも俺たち全員の力を合わせてなお、お釣りがくるほどの力を持
っているから…」
説明している間にも、部屋の中では壁越しにまで衝撃が伝わってくるほどの激戦が繰り広げられてい
る。不安そうにユウカが聞いてきた。
「…勝てるの?」
「わからん。これだけ厚い石壁を通してなお衝撃が響いて来るんだ。閉鎖空間になっているこの中で
は、想像を越える戦いになっているはずだ。仲魔の実力は俺たちなんて比べ物にならないほど高いが、
ダライ・ラマ13世も俺たち全員を相手にして、終始優勢を保っていたんだ。俺が優劣を判断できるレ
ベルを遥かに越えているよ」
俺が言い終わると、皆が部屋への入り口を見つめた。
ルリの結界で、中への出入りは光ですら遮断されているため、結界の影響を受けてない石壁を通じて
響いてくる衝撃の激しさでしか、様子を窺い知る術はない。
それも、最初のうちは続けざまに響いていたものが、時間が経つにつれて間隔が長くなり、やがて散
発的になってきた。
「…」
ルリが、無言で俺の傍までやってきて、あちこちにできた擦り傷に薬を塗ってくれた。だがその仕草
も、どこかそわそわしている。みんな、決着が付きつつあるのを敏感に感じ取っているのだ。
プリンシパリティは、果たして勝ったのか?それとも…。